ぺぺ・ウイリー( Pepe Willie)



プリンスの従姉妹のショーンテル・マンダービルの夫。1974年に務めていたニューヨークの電話会社を辞めてミネアポリスに移住し「94イースト」として活動を開始する。当時グランド・セントラルという名前のパーティーバンドとして活動していた15歳のプリンスの演奏を観たウイリーはすぐに興味を持ち、共に活動するように声を掛けた。ウイリーはプリンスに音楽業界のしくみを教え、「94イースト」で本格的なレコーディングの経験をさせた。


バーナデット・アンダーソン
(Bernadette Anderson)




アンドレ・アンダーソンの母親。幼い頃から社交的な性格であった。6人の子供を持つ若い母親として、彼女は学校関連の問題に積極的に関与するようになった。長年PTAのボランティアメンバーであり、ミネアポリス公立学校システムでソーシャルワーカーのアシスタントとして働いていた。その後、YWCAのスタッフに加わり、ユースプログラムおよびティーンクラブのディレクターを務めた。

1974年にプリンスを自宅に迎え入れ、音楽に傾いていたアンドレとは地下室で定期的にジャムを行っていた。プリンスとの同居は1976年後半に最初のマネージャーと契約するまで続いた。2003年、71歳で亡くなる。


メリン・ストーン・プール
( Mi-Ling Stone Poole)
1976-1980




メリン・ストーン・プールは1960年7月21日、ミネソタ州セントポールで生まれた。1976年の大晦日にブルーミントンのクラブのパーティーに女友達と行きその時に外の喫煙所に出てきたプリンスと出会った。その時プリンスは18歳でメリンは16歳だった。それから2年後の1979年に再び彼に会い1980年まで関係を築いた。近所に住んでいたTCエリスとは12才に知り合い、妹はスーアンカーウェルだった。アンドレシモン、ゲイリーハインズとも知り合いだった。
1985年に「Little Red Corvette」は自分についての曲だと聞かされた。またTCエリスも1989年『True Confessions』のレコーディング中にプリンスに質問したところ「そうだ「Little Red Corvette」は彼女について書いた」と聞かされた。
※「Little Red Corvette」はデニス・マシューズについて書かれた曲だと言われて来たが真相は不明。

2004年にファンクラブに入会したメリンはMUSICOLOGY TOURの3日間のミネアポリス公演のチケットを手にいれた。
夫とセンターステージの最前列に座り、サインを見つけたプリンスはそれに気づきステージに上げられて踊った。数日後ジェローム・ベントンから電話がありペイズリーパークに招待され3日間過ごした。

メリンは俳優であり、アソシエイト・プロデューサーでもあり、『雨と稲妻の香り』(2016 年)、『Gosnell』(2016 年)、『Ninth Street』(1999 年) で知られている。現在彼女は「Little Red Corvette: Woman Behind the Song」という回想録を書いている。

クリス・ムーン ( Chris Moon)
エンジニア/プロデューサー


(1992)
1967年にハワイからミネアポリスに移住。10代の頃から詩を書きソングライターを夢見ていたムーンは、70年代の初め音楽と写真撮影でキャリアを始めるために、マルチチャンネルのリール・ツー・リールと香港製のカメラを購入した。ムーンはミネアポリスにある彼の家の地下にムーンスタジオを作り、そこで地元のバンドとコマーシャルのジングルを録音した。彼のスタジオはリズム&ブルースを歌う若い黒人に人気があった。
1976年、スタジオを訪れた高校生のプリンスの才能を認めたムーンは、作曲に手を貸す事を条件にスタジオを自由に使う権利を与えた。プリンスはそこでレコーディング・コンソールを使用し、楽器のオーバーダビングをする技術を学んだ。
ムーンとのコラボレーションで作られた「Soft and Wet」はプリンスの新しいスタイルにとって重要なものとなった。
メジャーレーベルとのレコード契約に難航したムーンはミネアポリスのオーエン・ハスニーにプリンスを紹介した。


オーエン・ハスニー( Owen Husney)
プリンスの最初のマネージャー
プロデューサー/
レコーディングエンジニア


HLN (2017)
1977年、オーエンはLoring Parkで小さな広告代理店を持っていた、プリンスのデモを聴いたオーエンはプリンスが気に入り、弁護士と事務所を立ち上げ、最初のマネージャーとなった。住む家、録音機材を提供しワーナー・ブラザーズと契約を結ぶ手助けをした。

「私たちはプロモーションのためにラジオ局を訪れていて、誰もお金を持っていなかったので、プリンスと私はホテルの部屋を共有していました。プリンスはいつも一晩中大音量で音楽を聴かなければなりませんでした。それが彼が眠ることができる唯一の方法でした。サンフランシスコで、彼はぐっすり眠っていたのを覚えています。朝の4時にラジオが鳴っています。手を伸ばしてオフボタンを押しました。彼は立ち上がって言った、「決してラジオを消さないでください。音楽は野蛮な獣をなだめます。」彼はラジオを叩いて再びオンにします、そして彼はぐっすり眠りました。」


1977年に録音された『Loring Park Sessions』と呼ばれているアルバムは、オーウェンのミネアポリスの事務所(?)にてプリンス、ベーシストのアンドレ・シモーンとドラマーのボビーZの3人の演奏で録音されたが発表される事は無かった。


ゲイリー・レビンソン( Gary Levinson)
プリンスの最初のマネージャー

  1977年、16歳のゲイリー・レビンソンはビジネスパートナーのオーエン・ハスニーとプリンスの最初のマネージャーとして働き始めた。当時プリンスはノース・ミネアポリスに住んでおり、ロサンゼルスのワーナー・ブラザーズ・レコードとの最初の契約を交渉する前には、叔母の地下室のマットレスで寝ていた。レビンソンはプリンスがステージ上でどのような大物になるかは分からなかった。「最初の2か月間は、彼はとても恥ずかしがり屋で物静かだったので、パフォーマンス出来ないのではないかと心配していた」とレビンソンは告白する。 「でも彼の友達は皆、時々遊びに来て、『彼のパフォーマンスは見た方がいいよ。彼は素晴らしいパフォーマーだ』と言いました。」
彼はほとんど話さず、質問に「はい」又は「いいえ」又は「おそらく」と答えた。「これには時間がかかるだろう」とレビンソンは思い起こす。プリンスはやがて自分の殻から抜け出し、周囲の人々を信頼するようになった。 レビンソンがプリンスと一緒に働いた重要な2年間で彼のお気に入りの思い出はプリンスの甘党に関するものだった。彼らの最初のビジネスミーティングは、ミネアポリスの地元のアイスクリームショップで行われたが、プリンスは西海岸を訪れた時に別の楽しみを持っていた。ウィンチェルズ・ドーナツが大好きで、店の前を通ると「菓子の箱を買わなければならない」と言い、必ず立ち寄らなければならなかった。


ロバート・ホイットマン ( Robert Whitman )
フォトグラファー

1977








1977年、オーウェン・ハスニーとゲイリー・レビンソンは、レコード会社向けのプレスキット用にプリンスの写真を撮ってもらおうと、レビンソンの友人でもある写真家のロバート・ホイットマンのアパートを訪れ「これを是非聴いて欲しい」と話し、「Soft & Wet」のデモが入ったカセットテープをカーステレオで聴きながら車で走り回った。皆その少年が何か特別なものを持っていることを理解しており、ただそれを引き出す必要が有った。撮影はその第一歩だった。ホイットマンは翌日プリンスに会うためにレコーディング・スタジオにレビンソンと訪問した。その部屋には沢山の楽器があり、プリンスはそのすべての楽器を演奏することが出来た。彼はフレンドリーで、物静かでとても恥ずかしがり屋だった。
プレスキット用の撮影は何のガイダンスも無く、3つの別々の場所で良いショットを撮るために必要なことを試した。ダウンタウンの通りでは成り行きに任せて撮影を行ったが、シュミットミュージックの壁はユニークで良い背景だった。マネージャーのオーエン・ハスニーの家ではピアノとギターと犬がいた。ホイットマンのスタジオには小道具があったが、プリンスはホイットマンが何を望んでいるのか分からず、アイデアを出し合いながら撮影を行った。髪の後ろに光を当て、アフロが光輪のように見えるようにした。さらにプリンスのシャツを脱がし、シャボン玉を吹かせた。



Marylou Badeaux
ワーナーブラザースレコード
1976-2002

保険会社で働いていたが友人にワーナーブラザースを紹介され入社。当時6人のチームからスタートしたワーナーの「ブラック・ミュージック」部門だったが、プリンスのようなアーティストの成功で彼女の部署の職員は60人以上に増員された。



トニー・ヴィカリ ( Tommy Vicari)
レコーディング・エンジニア
1977-1978






1977年、当時サンフランシスコでサンタナのアルバム「ムーン・フラワー」をレコーディングしていたヴィカリにワーナーから連絡が有り、新しく若いアーティストをプロデュースして欲しいとの事で滞在していたミヤコホテルにデモテープが届いた。3、4曲聴いてOKした後打ち合わせのためミネアポリスに住んでいるプリンスのアパートに行った。アパートに入ると小さなキッチンが付いたベッドルームが有り、ウォーターベッドとチャカ・カーンのポスターが貼ってあった。壁全体に45枚のシングルが釘付けにしてあり部屋の中はゴミで散らかっていた。この部屋で打ち合わせをするはずだったが、2人は外で夕食を取り、映画を観に行く事に決め結局「スターウォーズ」を観に行った。映画館では他に客はおらず最前列に座った2人は目の前の宇宙船に目を見合わせた。
当初プリンスの希望でアルバムのレコーディングはSound80を予定していたが、技術的な問題で作業が進まないと判断したヴィカリは「ロスに行ったほうがいい」と勧める。しかしプリンスとオーエンは行きたがらず、サンフランシスコのサウサリートに有る「レコード・プラント・スタジオ」に決まり、プリンス、アンドレ、ヴィカリとオーエン夫婦は同じ一軒家に滞在する事になった。1階にプリンス、2回にヴィカリ、3階にオーエン夫妻が泊まっていた。

セッションは10月1日に始まり、間もなくしてプリンスはデモを一緒に制作したデビッド・Zを呼びレコーディングを続けた。今回プロデューサーを望んでなかったプリンスとヴィカリは何度も衝突し、長期に渡るレコーディングにより「For You」の制作予算は大幅に膨らんでしまった。連日夜遅くまで続く作業にもヴィカリはついていけなかった。

ある日、スタジオにチャカ・カーンから電話が有り、受けたセカンドエンジニアのスティーブ・フォンタナが「誰かチャカと話せる人いるかい?」と言った。チャカはスライ・ストーンを探しており、ヴィカリがプリンスに「スライのふりして出たら?」と言い、プリンスは「Baby What's Happening?」と約5分間チャカと話した。そして1時間後3人の男性を引き連れたチャカがスタジオに来て、コンソールに座っていたヴィカリの隣に座る。ベースを録音していたプリンスは弾き終わりスタジオから出て行った。その後チャカがスタジオから出た時にプリンスはドアの前に立っており、チャカはプリンスの頬をつまんで「あなたはかわいい」と言った。
※チャカ・カーンの話ではスタジオから出た時にプリンスに「スライはどこにいるか知ってる?」と聞くと、「こんにちは僕の名前はプリンス。あなたと電話で話したのは僕です」と言われとても腹を立てていたと笑顔で語っている。




デビッド Z ( David Z )
David Z Rivkin
プロデューサー/
レコーディングエンジニア
1978-1990

デビッドは3人兄弟の長男です。彼の末弟のボビー・Zは、プリンスのバンド、ザ・レボリューションのオリジナルドラマーでした、彼の兄弟であるスティーブン・E・リヴキンは、映画編集者、特に「パイレーツ・オブ・カリビアン」三部作と「アバター」の編集者として有名です。
デビッドは10 代をミネアポリスの地元のロックバンドでギタリストとして過ごした後、1970 年代初頭にソングライティングとエンジニアリングを通じて、ミネアポリスとロサンゼルスの間で時間を過ごしました。彼の初期の作品は、おそらくこの時期にグラム・パーソンズの最初のソロ LP GP、特にトラック「How much I've Lied」に寄稿したことで知られています。
1970 年代半ば、プリンスのマネージャーのオーエン・ハスニーはセントルイスパーク高校の同級生であるデビッド・リブキンをプリンスのエンジニアとして雇いました。2 人は Z エンジニアリングを使用して一連のデモを録音し続け、最終的にプリンスはワーナー・ブラザーズとの契約にサインしました。その後もデビッドはプリンスとのレコーディングで、ドラムマシン、ループ、サンプルの革新的な使用によりミネアポリス・サウンドを確立する上で重要な役割を果たしました。プリンスの作品で最もよく知られた貢献は、1986 年のヒット曲「キス」での制作とエンジニアリング。アルバムではデビューアルバムのプロデュースし、「パープルレイン」ではファースト・アヴェニューでのライブをモバイルレコーディングトラックで録音した時のエンジニアでした。デビッドの貢献の多くは、プリンスの多作な作曲とレコーディング神話の中で失われているが、デビッドのインプットでのレコーディング技術、制作が本質的に絡み合っていることは明らかです。



ボビーZ ( Bobby Z)
Robert B.Rivkin
ドラマー 1976-1986


レヴォリューションのドラマー。70年代後半にプリンスが多様な人種を交えたスライ&ザ・ファミリーストーンのようなバンドを結成するために選ばれた。ファーストアルバムから参加しているが、アルバム「1999」がリリースされる頃には、プリンスはますますエレクトリックドラムを利用するようになり、ボビーはスタジオだけでなくコンサートでもこれらのスタイルに適応させなければならなかった。
2010年心臓発作を起こしたがその後回復、プリンスの死後は再結成されたレボリューションで活動する。ステージネームの「ボビーZ」は祖母がボビーを呼ぶ時のニックネーム「Butzie」に由来する。





スー・アン・カーウェル (Sue Ann Carwell )
シンガー

1978


1978年の夏、ファーストアルバム「For You」がリリースされたばかりの頃、地元のローカル・グループで当時16歳の歌手を目指すスー・アン・カーウェルがいた。チャド・スミスは「彼女はすべての地元のタレントショーで優勝していたので、彼女が歌っていることを知っていれば、人々はコンテストに参加するのを怖がりました。そこで私たちはプリンスに彼女をチェックするように言いました。彼はそこに行き、彼女の驚異的な声を聞いた」。スー・アン・カーウェルのパフォーマンスを観たプリンスはショーの後、彼女にプロジェクトに興味があるかどうか尋ねました。カーウェルはそのアイデアに夢中になり、プリンスは自宅のスタジオで彼女のために作曲とレコーディングを始めました。
プリンスとカーウェルは、プリンスが2年前のムーンサウンドで制作した「Make It Through the Storm」、「Since We've been Together」、「Would n't You Love」など、いくつかの曲を一緒に録音しました。プリンスは当初から、舞台裏からカーウェルをプロヂュースしようと考えていました。彼女のために書いた歌詞と音の両方の観点から、意識的に女性の視点を採用しようとしました。たとえば、恥ずかしがり屋で弾力のある「Wouldn’t You Love to Love Me?」は、男性の求婚者に追われる女性の視点から書かれました。彼らはまた、「I'm Saving It Up」と呼ばれる曲でも協力しました。残念ながら、これらの録音はどれも流通していないようですが、チャド・スミスはとカーウェルが歌った「Wouldn’t You Love to Love Me?」について最終的にリリースされたものよりもはるかに優れていると話す。「4トラックでアンドレがベースパートを演奏しながら、プリンスはバスドラムを蹴り、アコースティックギターを弾く事きました」。スミスによれば、「プリンスは毎日家でカーウェルのレコーディングを行い、曲が完成すると、とカーウェルはそれを気に入りました」。
プリンスはカーウェルのサイドプロジェクトの可能性に興奮し、ワーナーブラザースに素材のデモを提供することを計画し、プリンスはエンジニアのデビッド・リブキンを使いサウンド80で録音しようとしました。彼女は素晴らしい声を出し、プリンスは彼女のレコーディングに真剣に取り組んでいましたが、メンターとメンティーの間で緊張が生じ、レコ―ディングが完成することはありませんでした。カーウェルは、プリンスのコントロールフリークの傾向、特に彼女に「スージー・ストーン」という芸名で付けるという彼の主張に呆然としました。架空の名前を持ちたくないという訴え、プリンスの行おうとしているビジネスの運営方法と衝突し、プリンスもキャリアが軌道に乗り始めた時で時間が無く諦めて先に進むことにしました。




アラン・ボーリュー (Allen Beaulieu)
フォトグラファー

1978-1985


CNN (2016)
1978年、プリンスがアンドレ・シモンの母親の家の壁に掛かっている、ボーリューが撮影したポスター(ミネアポリスのダウンタウンで開催されたファッシンショーのポスター)を見た時に初めて会った。
ダーティマインドのジャケットではプリンスからベッドを使いたいとの希望があり、ジャンクショップから25ドルのベッドスプリングを購入しそれを背景に置いた。助手が居なかった為撮影はプリンスと二人だけで行った。「Dirty Mind」「Controversy」「1999」の3枚のアルバムジャケットと3回のツアーを撮影する。カメラマンとして初期のキャリア成功後、ニューヨークに移りオジー・オズボーン、トレーシー・チャップマン等有名ミュージシャンの写真家となった。




ゲイル・チャップマン ( Gayle Chapman)
キーボーディスト
1978-1980



キーボーディスト、ギタリスト、歌手、作曲家のゲイル・チャップマンは、デビューアルバム「For You」のリリースに続いて、1978年にプリンスがオーディションを受けて採用した最初のバンドメンバーの1人でした。唯一の女性グループメンバーとして、彼女は1979年にプリンスとツアーを行いました。チャップマンを含むラインナップは1979年にThe Rebelsのレコーディングに参加しました。ヴォーカルを担当した2曲は最終的に、ポーラアブドゥルによる「U」とミーシャ・パリスとマイテ・ガルシアによる「If I Love U Tongiht」になった。
チャップマンは性的に露骨な言葉やテーマの「Head」に不快感を覚え、80年5月にグループを去るに至った。チャップマンはプリンスのラインナップでリサ・コールマンに置き換えられ、それ以後、チャップマンは主流の音楽業界の外で生涯を過ごしました。彼女は音楽の執筆と指導を続け、他のアーティストと協力し、2003年にセルフタイトルのフォークミュージックフレーバーアルバムをリリースしました


ゲイリー・ブランド( Gary Brandt)
レコーディングエンジニア
1979

  「Prince」のレコーディングセッション は1979年 4月下旬に本格的に始まり、 オーバーダブとミックスは6月13日までに完了した。約7週間で、プリンスがデビューアルバムを完成するのにかかった時間のわずか半分 だった。プリンスは、最先端のレコード工場ではなく、カリフォルニア州バーバンクにあるAlpha Studiosを使用した。これは所有者でエンジニアのGary Brandtの家にある比較的控えめな施設だった。「For You」でのプリンスはスタジオコンソールの隅々まで使用する決心をしていたが今回アプローチでは著しく縮小された。Brandtによれば、Princeは故意にAlphaの利用可能な24トラックのうち16のみに制限した。Alpha Studiosで16トラックを使用することは、Sound 80の控えめな施設とミネアポリスの彼自身のホームスタジオに慣れているアーティストにとってより快適に感じられた。





ボブ・モックラー (Bob Mockler)
レコーディングエンジニア
1979-1980





1979年5月、プリンスはロスのアルファ・スタジオでセカンドアルバムの制作を行っていたが、スタジオの予約期間が終了してしまい、場所をハリウッド・サウンド・レコーダーズに移した。そこのスタッフ・エンジニアであるボブ・モックラーは、プリンスの初期のキャリアにおいて重要な人物となった。彼はまた、1980年の「ダーティマインド」と1981年の「コントロヴァシー」の両方でもレコーディングとミキシングを支援した。プリンスのモックラーへの感謝は、アルバムに「ボブ・モックラーとプリンスによるリミックス」とクレジットされている事からも推測できる。モックラーは「彼が誰かの名前を自分の前に置いたのはおそらくこれが最後だろう」と話す。モックラーはクリス・ムーン以来、アーティストのどのコラボレーターよりもレコーディング・プロセスに関してより創造的な意見を持っていた。