1958-1972
June 29. 1916
Cotton Valley.Louisiana
ジョン・ネルソンはルイジアナ州北西部のコットンバレーで生まれる。



October 20. 1920
Missouri
ヴィヴィアン・ハワード生まれる。



November 11.1933
Minneapolis

マティー・デラ・ショーは1933年フランク・ショーとルーシー・ショーの双子の姉妹として生まれる。
Mattie Della Shaw
Lucille Barnell Shaw (1899-1974)
Edna Mae Shaw




1935 (?)
Minneapolis
ジョン・ネルソンは南部の人種差別から逃れるためにミネアポリスに移住。


October 25. 1938
Minneapolis
ジョンとヴィヴィアン結婚。

「プリンス」という名前の犬を飼っていた。

2人の間には5人の子供が生まれる。
Sharon Louise Nelson 1942
Norrine Patricia Nelson 1943
Lorne Lee Nelson 1942-12-02
John Roger Nelson 1945-01-13
Duane Joseph Nelson 1958-08-18



ピアニスト兼ソングライターで、「プリンス・ロジャース・トリオ」というジャズバンドで演奏していた。
John Nelson- Piano
Lawrence Griffin- Saxphone
Fred Anderson- Bass (アンドレ・シモンの父親)

ジョンは音楽で生計を立てることはできなかったため、プラスチック成形業者としても働いていた。



1950 (???)
Kansas City.Missouri
マティー・デラ・ショーはジャクソンと結婚。

July 6. 1953
Kansas City.Missouri
マティー・デラ・ショーの息子アルフレッド・ジャクソンが生まれる。
Alfred Frank Alonzo Jackson (1953-2019)

1954 (???)
Kansas City.Missouri
マティー・デラ・ショーはジャクソンと離婚。




1956
Minneapolis
当時ジャズシンガーとして活動していたマティは1956年にジョンと出会い、ヴォーカリストとしてバンドに参加。
1957年3月13日にジョンとヴィヴィアンは離婚。
1957年8月31日にジョンとマティーは結婚。

1958
ジョンと離婚後の1958年8月18日にヴィヴィアンはジョンとの子供デュエンを生む( ヴィヴィアンはGriswoldと結婚していた?)

※ヴィヴィアンは1973年6月25日に亡くなる




1957
2201 5th Avenue South. Minneapolis

家族は1958年末までの数カ月この家で暮らした。
June 7. 1958
2215 Park Avenue South. Minneapolis
Sinai Hospital

病院は1991年に閉鎖、改装されてフィリップ・アイ研究所になる。

ミネアポリスのシナイ病院で生まれる。



December 1958-1965
915 Logan Avenue North. Minneapolis

1960年、この家でタイカは生まれる。


※現在の家は1995年に建て直されたもの

       
December 1959
1209 jPenn Avenue North.Minneapolis
Mary Kate Riley's House

Denise (Charles' Sister)
Alfred (Prince's Brother)
Natalie (Their Cousin)
Wendy (Their Cousin)
Charles Smith (In Suspenders)
Prince (Sitting On His Father's Lap)
John L.Nelson (Prince's Father)


Edna Mae Collier ( Aunt)
Prince
Frank Shaw ( Grandfather)
(Private Collection of Charles"Chazz"Smith)

1964-1967 1968-1969
1014 Pen Avenue North. Minneapolis
John Hay Elementary School 1

ジョン・ヘイ小学校に入学 (Prince 6才)
※現在小学校は取り壊されている。
 





September. 1964
915 Logan Avenue North. Minneapolis

 (Prince 6才)


1964
Minneapolis
Mary Kate Riley's House

叔母マリーの家で家族のバースデイパーティー



March 25.1965-1970
8th Avenue North. Minneapolis
The 8th Avenue House Prince (6-13)

プリンスは8歳までにピアノを習得し曲を書き始め、最初の曲「Funk Machine」を作曲した。
Tyka Nelson
「私と兄は子供の頃、エルビス・プレスリーの映画を観ました。彼は自分もそうなりたいと言っていました。私はシャーリー・テンプルになりたかったんです。私たちはサインの練習をしました。私はまだ5歳で、彼は7歳でした。私は何をしていいのか分かりませんでしたが彼は自分が有名になるだろうと分かっていました。」
【StarTribune】(2024.06.04)

1966 (?)
両親の不仲により父親ジョン・ネルソンが家を出る。ジョンはローガンの家にもどる。

1967
1967 (?)
Minneapolis

1967 September ->
1014 Pen Avenue North. Minneapolis
John Hay Elementary School 4
(ジョン・ヘイ小学校 4th Grade) (小学4年) (9才)
(1967年9月〜1968年8月)

同じクラスにはテレンス・テリー・ジャクソンがいた。



September.1967
Minneapolis
マティはジョンとの離婚を申請する。
October 5.1967
1014 Pen Avenue North. Minneapolis
John Hay Elementary School

Prince Rogers Nelson

1967年10月5日の作文 『My dog』
My dog is very funny. His name is Kimi. One Morning when I Wkake up. Kimi was sitting on the head of my bed and was trying to wake me up.
僕の犬はとても面白いんです。キミっていう名前です。ある朝、目が覚めるとキミがベッドの頭の上に座って、僕を起こそうとしていました。」
(Prince 9才)

Fall 1967- Spring 1968
2013 Penn Avenue South. Minneapolis
Kenwood Elementary School

1967年、ミネアポリスは自発的都市転校プログラムの取り組みを理由に保護者に対してバスを利用して別の学校に通わせる機会を与え、プリンスとタイカはケンウッドに転校する。
『The Sacrifice Of Victor』の歌詞の引用
「1967年、公立学校行きのバスに僕は何も知らない政治の道具にされたグループと乗り込んだ。両親は近くに別の肌の色の人がいるのはどんな感じだろうと不思議に思い、彼らは恐怖をなくすために僕たちを一緒にさせた。僕たちは犠牲になった。僕たちはお互いに争ったんだ。」


1968
1968
Minneapolis
ケンウッド小学校でプリンスとタイカはいじめや嫌がらせを受け再びジョンヘイ小学校に戻る。

February 27. 1968
1014 Pen Avenue North. Minneapolis
John Hay Elementary School



ジョンヘイ小学校のプログラムでタレントショーが行われる。11歳のチャズ・スミスと9歳のプリンスが参加。プリンスはピアノで「バットマンのテーマ」と「Man From Uncle」を演奏した。
(ジョン・ヘイ小学校 4th Grade) (小学4年) (9才)
(Twitter: Chazz Smith)



1968 Fall->
1014 Pen Avenue North. Minneapolis
John Hay Elementary School 5

(ジョン・ヘイ小学校 5th Grade) (小学5年) (10才)
(1968年9月〜1969年8月)




September 24.1968
Minneapolis
マティはジョンと正式に離婚。
1969年にマティはヘイワード・ベイカーと結婚。
1968
Sheridan Avenue North. Minneapolis
Charles"Chazz"Smith's House

近所に住んでいたいとこのチャールズ・スミスとバンドを作りガレージで楽器を演奏する。近所の子供たちが彼らの練習を聴きに来た。
Charles"Chazz"Smith
「俺たちはいとこであり、親友でもあった。プリンスはまるで兄弟みたいな存在だったんだ。音楽を始めたのも一緒だったよ。俺がドラム、プリンスがキーボードを弾いてた。彼の父さんがギターを買ってくれてからは、ギターばっかり練習してたね。
あの頃、誰かの家で“バンドやっていい?”って頼み込んでた。断られることもあったけどOKしてくれる人もいた。どんな機会でも演奏したかったんだ。
俺たちは学校をサボってまで練習してた。」
(CBS News)

1969
1969 September ->
2131 12th Avenue North. Minneapolis
Lincoln Junior High School 6

( リンカーン中学 6th Grade)
(9月〜8月) (日本の小学6年) (11才)

1969年の秋にリンカーン中学校に通う。アンドレシモンは団地から引っ越して来たばかりの転校生だった。
Andre Cymone
「初めて会ったのは中学1年生の時だった。俺たちは全く違う地域から来たので、新しい学校には誰一人知り合いがいなかった。それから教室に入り壁際に立つように言われたんだ。壁一面に知らない男の子たちが並んでいて、ふと見ると少し自分に似ているやつがいた。
「君の隣に立たせて、僕はアンドレだ」「僕はプリンスだ」俺たちは話し始めた。俺はかなり積極的な子供だったので、「何をしているの?何に興味があるの?」と聞いてみたんだ。彼は「音楽をやっているんだ」と答えた。「へえ、僕もだよ」。彼は「何を演奏するの?」と聞いてきた。俺は「管楽器とギターとベースを弾くんだ」と答えると、彼は「僕はピアノとギターを弾くよ」と言った。俺たちはすぐに意気投合した。俺と同じく彼はとても情熱的そうに見え、俺は自分がこれからこうなるだろうと話し始めた。彼も「うん、僕もだよ」と答え、そして俺たちは親友になったんだ。」
(mspmag.com) (2016)
Jellybean Johnson
「プリンスとは13歳でミネアポリスのリンカーン中学校に通っていた頃からの知り合いです。」
※ジェリービーンはプリンスより2歳年上
1969-1972
1707 Glenwood Avenue
Father's Apartment

放課後になると父のアパートで多くの楽器を使いジャムを行った。プリンスはアンドレの父親フレッド・アンダーソンがジョンのバンド「プリンス・ロジャース・トリオ」でベースを演奏していたことを知る。ジョンは1972年までこのアパートに住む。一時期はプリンスも住んでいたと思われる。
Andre Cymone
「プリンスが「ねえ、ジャムセッションしないか?父さんが機材を持っているから、一緒にジャムセッションできるよ」と言ったんだ。それで俺たちは彼の父親の家に行った。すると確かに彼の父親は美しいピアノとギターを持っていた。彼はギブソンを新品同様の状態に保っていた。彼はプリンスにそれを弾かせてたけれど、自分の(父親の)家でのみ弾かせてくれたんだ。とにかく、俺たちはジャムセッションをしたよ。そして彼は当時驚異的だった、彼は『The Man from UNCLE』 と『ピーナッツのテーマソング』を演奏出来たんだ。」
(Billboard.com)


Andre Cymone
「ジャムセッションに行った時にピアノの上を見るとプリンスのお父さんが、色々なコンボやトリオで演奏している写真がたくさん有った。その中に男の人がアップライトベースを持っていたのがあって、プリンスに「あれ、これうちのお父さんに似てるね。髪があるけど!」って言ったんだ(一同笑)。うちのお父さんは頭頂部には髪がなくて、横に髪がいっぱい生えてた。それで「変だな、でもあれはうちのお父さんみたいだ」って思った。するとプリンスは「お父さんが帰ってきたら聞いてみよう」って言ったんだ。
その後彼の父親に「これは誰?」と写真を指差すと、彼は目を大きく見開き写真と私の顔を交互に見て、笑い始めたんだよ。彼のお父さんは、大きくて低い声で、笑い方も深いんだ。そして彼は「なんてことだ!君はフレッド・アンダーソンの息子か! 」 と言ったんだ。」
(the current.org) (2017/04/21)


November 29. 1969
"The Minneapolis Armory"Minneapolis
James Brown Concert

11歳のプリンスは義父と一緒にコンサートに行き、曲の一部でジェイムズ・ブラウンと踊る。
Prince
「僕が10才の頃にジェイムズ・ブラウンから大きな影響を受けたんだ。義父が僕を彼のステージに上げてくれて、ボディガードに連れ去られるまで少しの間踊っていたんだ。僕がジェイムズ・ブラウンをこんなに好きな理由は、帰る途中のバックステージで人生で見た中で最も美しいダンサーたちを何人か見たんだ。そういう意味で彼はグループを統率することで僕に影響を与えたと思う。」
(MTV Interview 1985)
Terrence Terry Jackson
「10才才か11才の頃、母が僕とプリンスともう1人の友達をアーモリーに降ろして。俺達はステージまで行ったんだ。バンドはジェイムズのために盛り上がってたけど、彼はまだステージには出てなくて、プリンスがステージに飛び乗ってマッシュポテト(ダンス?)をやり始めた。バンド全員、観客全員がしばらく動けなかったんだけど、ジェイムズにマントを着せる男が我に返ったみたいにプリンスをつかんでステージから投げ落としたんだ。
彼は恐れ知らずで俺には絶対に出来なかった。」
(Prince's Friend) (youtube) (2018/05/11)

※プリンスとテリー・ジャクソンの記憶が違う。





1969
Minneapolis
アンドレ・アンダーソンはプリンスと出会いベーシストとしてプリンスとチャズのバンドに加わった。
Prince (Vo & Key)
Andre Anderson (Bass)
Charles"Chazz"Smith (Drums)
Prince
「僕とアンドレの二つの家族が初めて出会ったのは教会でした。僕たちはセブンスデー・アドベンチスト教会に通って育ち、そこで僕は初めてアンダーソン夫妻と出会ったんです。フレッド・アンダーソンと彼の妻バーナデットは僕の両親の友人になり、バーナデットと母は夫たちのことで密かに互いを支え合っていたと思います。」
(The Beautiful Ones)



1969 (?)
Minneapolis



1970
April. 1970
2131 12th Avenue North. Minneapolis
Lincoln Junior High School

2022年4月、3月にミネアポリスで起こった教育関係者のストライキの背景を検証するため、WCCOのフィルムアーカイブから1970年4月に同じ地区で起こったストライキの映像を確認すると、インタビューで答える11歳のプリンスが映っていた。

「彼らは僕たちのために余分な時間を費やしているので、彼らはもう少しお金を貰うべきだと思います」。

Charles"Chazz"Smith&Prince

( リンカーン中学 6th Grade )
(日本の小学6年生) (11才)

July 19. 1970
"Parade Studium"Minneapolis
Sly &The Family Stone Concert
チャールズとコンサートを観る
Charles"Chazz"Smith
「パレード・スタジアムで本当はファミリー・ストーンを見る予定じゃなかったんです、とにかく行ってみたらフェンスが破られていたので僕たちはこっそり入りました。そのショーを観たあとお互いの顔をみて、これで生計を立てようと思ったんです。」
(Prince Unauthorized) 1992年テレビ


1970 September ->
2131 12th Avenue North. Minneapolis
7
Lincoln Junior High School
(リンカーン中学 7th Grade)
(日本の中学1年生) (12才)




1970 (?)

2131 12th Avenue North. Minneapolis
Lincoln Junior High School
リンカーン中学校の講堂でタレントショーが行われた。7年生のトリオとして演奏したプリンス、アンドレ、チャールズを観たテリー・ジャクソンはメンバーになりたいと思い、母親に質屋でコンガを買って貰い一週間後にはカルテットになっていた。当時バンドは平和主義であり年上のチャールズが実質的なリーダーだった。


Andre Anderson (Bass)
Prince (Lead Guitar)
Terrance Terry Jackson (Congoes)
Charles"Chazz"Smith (Drums)

テリー・ジャクソンはプリンスやアンドレと同じ1958年生まれ。チャズが1才年上。



October. 1970
Minneapolis
ヘイワード・ベイカーとマティ・ベイカーの間にオマー・ベイカーが生まれる。

December 10. 1970
Minneapolis
ニューヨークに住んでいたペペ・ウィリーはショーンテルという女の子と付き合い始めた。彼女はミネアポリスから来た訪問者で、彼女の母はプリンスの母親のマティー・デラの妹だった。そしてウィリーがミネアポリスに住む彼女を訪ねた時、彼女の12歳のいとこプリンスと出会った。
Pepe Willie
「私はちょうど除隊したばかりでした。プリンスのいとこであるショーンテル・マンダーヴィルと付き合っていたためミネアポリスに来ました。プリンスは当時12歳で、親戚の家で従兄弟のチャールズと遊んでいました。プリンスは当時とても背が低かったので、7歳くらいかなと思いました。」

「彼はあまり口数が多くない内気な子供でした。当時の彼の最も鮮明な記憶は、いとこのチャズとプロレスごっこをしている姿でした。」


1971
May. 20 1971
2131 12th Avenue North. Minneapolis
Lincoln Junior High School

5月にリンカーン中学校で音楽プログラムが行われた。
(リンカーン中学 7th Grade)
(日本の中学1年生) (12才)

Soul Explosion, doing their thing....
Prince Nelson
Andre Anderson
Charles Smith
Len Perry
Jerome Dunham


バンド名をSoul Explosionに決めるがすぐにPhoenixに変更、その後再びGrand Centralに変える。

※この後、6月頃にブライアント中学に転校したと思われる。。


1971 June,July?
3537 South 4th Avenue. Minneapolis
Olivia Lewis's House

ジョンL.ネルソンのアパートを離れて叔母のオリビア・ルイス(父親の妹)と断続的に暮らした。しかし、2人はプリンスの深夜の出入りと絶え間ないギター演奏をめぐって衝突した。(13才)
Andre Cymone
「彼は叔母のオリビアと一緒に暮らすことになったんだ。実は俺の母親は以前彼女の隣に住んでいたんで、オリビアに会いに行った時に彼女から「アンダーソン。あなたはバーナデットと親戚なの?」と聞かれたんだ。「バーナデットは僕の母さんです」と答えると、彼女は「あらまあ。あなたのお母さんは私の隣に住んでいたのよ!」と言ったんだよ。」
(the current.org) (2017/04/21)

Kristen Zschomler (歴史家)
「プリンスは7年生の時に市の南側であるブランアント中学校に通いました。私はいつもなぜ人種差別撤廃の取り組みが市の北側であるアフリカ系アメリカ人が大多数を占める中学校から生徒を連れ出すことになるのかと考えていました。南側では人種差別撤廃運動の一部ではなかったようですし、当時も正式な人種差別撤廃は1972年まで実現しませんでした。
しかしその過程で明かになったのは、彼の母親がヘイワードベイカーと再婚した後、幼少期を過ごした家を出て父親とグレンウッドのアパートに住見始めたのですが部屋が足りず、ブライアント中学校のすぐ近くにある叔母オリビアの家に住むことになったのです。彼は音楽プログラムが充実していたブライアントに進学したかったということです。
つまり人種差別撤廃運動の犠牲者というよりは彼が賢い人間であることを示しています。」
(Interview with Kristen Zschomler) (2021)

1971 ->June,July?
310 East 38th Street. Minneapolis
Bryant Junior High School 7

1971年、プリンス(7th Grade 13歳) は市のバス送迎プログラムによってミネアポリス北部のリンカーン中学校からブライアント中学校に転校し、バスで通学する事になる。そこで1つ年下のジミー・ジャムと出会う。
※ブライアント中学校は1979年に閉鎖され、同年からSabathani Community Centerとなる
Jimmy Jam
「プリンスと初めての出会いは中学校の時でした。そこで一緒に音楽の授業を受けていました。二人とも既に演奏は知っていましたが、1時間だけ授業を抜け出せるという理由でこの授業を受けていました。でも先生は僕たちに『メリーさんのひつじ』を練習しろとか言って帰って行ったんです。彼女が帰ったあと彼は小さな電子キーボードとかで歌い始めたんです。そして僕は父の演奏の仕方を真似していたので、かなり上手く演奏できると思っていました。ジャズのようなブルースのようなスタイル。僕の父はブルース奏者でした。しかしプリンスの父親はジャズ奏者でした。それでプリンスがキーボードを弾いて何かやると、僕はただ魅了されて「彼はどうやってこんなこと出来るんだ?」って思いました。私達は決して友達とかそういう類ではなかったけど、音楽的には意気投合しました。」
(Shawn Stockman's On That Note)


1971 September ->
310 East 38th Street. Minneapolis
Bryant Junior High School 8
(ブライアント中学校 8th Grade)
(日本の中学2年生) (13才)


Jimmy Hamilton (ブライアントの教師)
ブライアント中学校で7年生と8年生の時に音楽と音楽理論の授業でプリンスを教えた元音楽教師は、楽器を手に取るまでは、このアイコンは「内向的」だったと説明する。
「彼はとても静かでしたが、音楽を演奏するとまるで別人のようでした」とハミルトンは言う。「演奏を始めると、彼の目は輝き始めました。」

プリンスはまた、毎朝授業の前に1時間、バンド練習室で友人たちとジャムセッションをしていた。
「彼は毎日午前8時きっかりにバンド室のドアの前に立って、入れてもらうのを待っていました。その後、私が入ってきてセッションを中断し、生徒たちを生物学の授業に行かせていました。」


ハミルトン氏によると、プリンスはほとんど「独学」だったため、2人は音楽理論と楽しい現代曲の学習に重点を置いたという。
「彼はとても勉強熱心で、学ぶのが得意でした。楽器は何でも弾けましたが、一番練習したのはピアノの『天国への階段』でした。彼はあの曲が大好きだったんです!」
(People.com) (2016)
Julie Miller (当時の卒業生)
「ブライアントの卒業アルバムを見ると、セントラル高校の合唱団の指揮者だったスピード先生がブライアント中学校に来て、オリバーのミュージカルに何人か参加させてくれたんです。それで見てみるとなんとプリンスがドラムを演奏していました。プリンスが8年生の時です。ハミルトンさんから音楽理論を学んでいたという話は知りませんでした。」
(Prince Places-Kristen Zschomler) (2025)
1972

1972
72年後半プリンス、アンドレ、テリーは14歳、チャールズは16歳だった。1972年にグランド・ファンク・レイルロードの「Phoenix」が発売され、自分たちのバンド名を「グランド・セントラル」と名付けた。正式なバンド活動はこの頃だとプリンスは語っている。
Grand Central
Andre Anderson (Bass)
Prince (Lead Guitar)
Terrance Terry Jackson (Congoes)
Charles"Chazz"Smith (Drums)
Terrence Terry Jackson
「グループ名はいくつか候補がありました。チャールズ、カズン&フレンズなどです。その後、最初のタレントショーで優勝した後、チャールズはグランド・ファンク・レイルロードの72年の曲にちなんで、グループを「フェニックス」と名付けました。でも僕たちはフェニックス出身ではないし、その名前も気に入らないと言いました。
ジェームス・ブラウンとスライ&ザ・ファミリー・ストーンはどちらも「セックス・マシン」という人気曲をリリースしていました。
(それぞれ1970年9月と1969年5月リリース)
私たちは12歳か13歳でしたが、バンド名をセックス・マシンにしたいと思っていました。でも、母親たちは「ダメだ」と言いました。それで最終的に、グランド・セントラルという名前に落ち着いたんです。」
(ジャクソン 2004年)


1972
310 East 38th Street. Minneapolis
Bryant Junior High School 8

(Bryant Junior High 1972 Yearbook) 
( ブライアント中学校 8th Grade)

(日本の中学2年生) (6月以降なら14才)


1972 September ->
310 East 38th Street. Minneapolis
Bryant Junior High School 9
(ブライアント中学校 9th Grade 14才)
(日本の中学3年生) 


December 1972-1973
539 Newton Avenue.North. Minneapolis
Father's House

1972年12月にジョンは家を購入、14歳のプリンスはオリビアの家と行き来していた。しかしプリンスが若い女性を招く事に関する父親とのルールを守らなかったため喧嘩に発展した。
※ジョンはこの家に1985年まで暮らしていたが、その後「紫の家」に移る。

1973

Andre Cymone
「俺はとてもワイルドな子供だった。公共事業の出身でハスラーだったんだ。いつもあれをやらなきゃ、お金を稼がなきゃ、と話してた。彼はもっとのんびりとしたヤツだった。俺はバンドを組んだ後もまだハスラーをやっていた。車やバイクを盗んだり…いろんなクレイジーなことに夢中だった。俺たちはかなり良い上流中流階級の地域に引っ越したんだけど、俺が少し荒っぽい性格だったため、周りの親たちは自分の子供たちを俺の周りに近づけさせなかった。

彼の母親にとって決定的な出来事は、俺が真新しいキャデラックでプリンスを誘い出してドライブに誘った時だったと思うけど、彼女はプリンスに遊びに行くのを禁じだんだ。それから俺がプリンスに来てもらってジャムセッションをしたいと頼むたびに、彼女はダメと言うんだ。それで結局彼は逃げ出したんだと思う。
彼はうちの家に来て「ここにいていい?」と聞いたんだ。俺が母に聞くと、母は「うん、でも彼の母親に電話して、彼がここにいることを知らせないといけない」と言った。それで母は彼の母親に電話で知らせ、彼の母は「プリンスがそこにいたいなら、そこにいていいわ」と言ったんだ。こうして1日が1週間になり、1週間が1ヶ月になり、1ヶ月が1年になり、1年が5、6年になった、そんな感じだった。」
(Billboard.com)



1973(?)-1976
1244 Russell Avenue North. Minneapolis
Bernadette Anderson's House

1971年からアンドレ・シモンの家でリハーサルを行うようになり、1973年(?)に叔母の家を出たプリンスは、アンドレの家に住み始める。彼女はプリンスの人生において導き手となった。実際、近所では「クイーン・バーニー」と呼ばれていた彼女は、プリンスが学校に通い続け、勤勉さを身につける上で非常に重要な役割を果たしたため、数十年後、プリンスの最も自伝的な曲の一つ、1992年の「The Sacrifice of Victor」で彼女の名前が挙げられている。「バーナデットは淑女で、私にこう言った。『息子よ、何をするにしても、少しの規律が必要だ。犠牲を払う必要がある』」と。

Andre Cymone
「プリンスとうちの母はとても仲が良かったんだ。母はおそらくプリンスの成長期に彼の将来の責任を負っていたんだよ。母の主な要求は家事を手伝い、学校に時間通りに通い、良い成績を維持する事だった。それが全てだったと思う。そしてプリンスはそれを実行していた。」
(becoming prince.com)

※プリンスがバーナデットの家に住み出した正確な時期は不明。シルビア・エイモスは72年と答えている。

1244 Russell Avenue North
Anderson Family

Prince
Fred"Sonny"Anderson
Edward Anderson
Andre Symone(Anderson)
Sylvia Amos (Anderson)
Linda Anderson
Bernadette Anderson
Patricia Anderson

1973
"310 East 38th Street"Minneapolis
Bryant Junior High School 9

ブライアント中学校でのプリンスはスポーツの才能に恵まれ、9年生の時に強豪セントラル高校のジュニア・バーシティチームに選出され、俊敏性と持久力で名を馳せた。しかし音楽活動によりコートでのプレー時間が足りなくなったため彼はチームを辞めた。
( 14才)

Andre Cymone
「プリンスは本当に上手かった。俺たちは地下室でもゲームをしてた。隅っこにあったゴミ箱をバスケット代わりに使ったり、吊るせるものなら何でも使ったりした。地下室でアルミ製のゴミ箱をバスケット代わりに使って、激しい引き分けのゲームを何試合も続けた。プリンスのいとこのチャズとプリンスはバスケットボールに真剣に取り組んでいた。彼らは観戦し、プレイ中にチームの名前を叫んだり、シュートを決めるたびに「アール・ザ・パール!」と叫んだりしていた。」
(Wax Poetics) (2012)

       
1973
1248Russell Avenue North. Minneapolis

Terrence Terry Jackson's House


アンドレ家の隣にはバンド仲間のテリー・ジャクソンが住んでいた。バンドはこの家でもリハーサルを行っていた。
Terrence Terry Jackson
「リハーサルを始めると、すぐに人が集まってきて、演奏を聴き始めました。すると裏庭がいっぱいになりました。そして、いつの間にか路地裏まで人でいっぱいになっていました。その後、プリマス通りまで人が溢れかえっていました。プリマス通りには人が多すぎて、警察がわざわざ来て、『おい、この演奏をやめろ。交通渋滞を引き起こしているぞ』と言われたほどです」
(CBS News) (2022/04/22)


1973
"Grand Central"Rehearsals

"Do You Feel Like Dancing?
( Andre Anderson/Charles Smith)
"Fuck It Up
( Andre Anderson)
"Sex Machine (Machine)
( Prince)
プリンスによって唯一書かれた曲。後にMachineと改名される。

"Danger Lover
( Charles Smith )
Prince Rogers Nelson
「観客は僕がグループのために書いていた曲を知りたがりませんでした。歌詞のせいで、ただ顔を覆っていたんです。『マシン』という曲があって、機械を思わせる女の子について歌っていたのを覚えています。彼女の、うーん、という部分がとても露骨に描かれていました。観客はそれをとても受け入れ難いと感じていたようでした」
(NME 1981)


June 25. 1973
Vivian Nelson 1920-1973
ヴィヴィアン・ネルソンが亡くなる。53歳。プリンスは葬式でシャロンに初めて会う。
1973
Waldorf Salad
"Look At The Children"


David Coleman (Percussion) (10)
LIsa Coleman (Keyboards) (12)
Jonathan Melvoin (Drums) (11)
Deirdre Howard Williams (Flute) (13)
Debbie Coleman (Guitar)

Cole Coleman (?)
Mike Melvoin (producer) 

Lisa Coleman
「友達のディアラを含めて一緒にジャムセッションをして大騒ぎしていたの。フランク・ザッパっぽかった。ある日マイク・メルヴォワンが私たちの演奏を聴いて、曲を作ってレコーディングしないか?って声を掛けてくれたの。」

       
1973 (?)
Minneapolis
Andre Cymone
「俺たちはカバー曲もオリジナル曲も演奏した。アース・ウィンド・アンド・ファイアーからウォー、マンドリル、ジミ・ヘンドリックス、ビリー・プレストンなど、ありとあらゆる曲を演奏した。とにかくカバー曲をたくさん演奏していたんだ。地元のバンドのフライト・タイムは驚異的なバンドだった。彼らは演奏していて、俺たちはまだ駆け出しだった。当時のフライト・タイムにはテリー・ルイスがいたけど、ジミー・ジャムはまだ居なかった。彼はCohesionという別のバンドにいたからね。フライト・タイムはテリー、デヴィッド・アイランド、ジェリービーンがドラマー、そしてホーン奏者の一人がキッドだった。

最初のバンドバトルの一つを覚えている。彼らは俺たちに演奏をさせようとしなかった。会場にふさわしい機材が本当になかったからだ。俺たちにはちっちゃなアンプが1台あっただけだった。メンバーは俺とプリンス、そして彼のいとこのチャールズの3人だけだった。チャールズのドラムは両側にドラムヘッドが付いていなかった。俺たちは雑多な存在だった。でも俺は素晴らしい機材を持っている他のバンドのリーダーのところへ行って、(甲高い声で)「お願いですから、そちらの機材で演奏させてください。僕たちはそんなに上手くないんです。ただの弱虫なんです」と言った。すると彼らは俺たちを気の毒に思って「ああ、どうぞ」と言ってくれた。そして俺たちは演奏を続けそして勝利した。ヘンドリックスの曲とサンタナの曲を演奏したと思う。「Fire」だったかな。「Out of Space」はプリンスがオルガンを弾いてたから演奏したのを覚えてる。3曲演奏したと思う。ヘンドリックスの曲、オリジナル、そして「Out of Space」。それで俺たちが勝った時に、もう1、2曲演奏させてもらえたんだ。結局…(フォー・トップスの「Ain't No Woman Like the One I've Got」の歌詞を歌い始める)。ドラマーのチャールズがそういうのが好きだったのは知ってる。でもあの曲は当時の俺たちのスタイルにはちょっと合わない感じだった。

バンド対決で大きな賞品の一つは、地元のレコーディングスタジオでスタジオタイムを与えられたことだった。その時初めてスタジオに入り、デモ曲をいくつか録音することになったんだ。バリー・ホワイトの「Love Unlimited」を録音した。キャロル・キングの「It's Too Late」も録音したと思う。それからプリンスのオリジナル曲と、私の曲を1曲ずつ。」
(Billboard.com) (2016/04/28)
1973
Minneapolis

=Flyte Tyme=
Terry Lewis
Cynthia Johnson


=The Family=


Sonny Thompson ( Bass)

=Mind and Matter=

=Cohesion=

"Plymouth Community Center"

Prince (Vo)
Charl"Chazz"Smith (Drums)
(Youtube)"End Of The Road "Tyka Nelson

1973 (?)
Minneapolis

Paul Mitchell (デュアン・ネルソンの友人?)
Duane Nelson
Prince Rogers Nelson





Terrence Terry Jackson
「3か月半ほど自分たちのものでない車を自由に使う事が出来たんだ。ある友人が1962年製のシボレーインパラコンバーチブルだと言い、3か月程その車を所有していたんだ。チャズが俺達の中で一番年上だったのでいつも運転していたんだけど、9年生の卒業式前、そのオープンカーにアンドレ、プリンスとチャズが乗っていて、突然ウイリアムが運転してみたいと言い出して運転したんだ。確かラッセンだと思うけど前に車が一台あって、通り過ぎようとしたんだけど、行けなくて後ろに止まったんだ。運転席にはウイリアムが座っていたんだけど彼は小さいから外からほとんど見えない。すると毛皮のコートを着た女性が車から飛び降りて来て、手に凄く大きな銃をもって「くそ野郎、今すぐ私の車から出ていけ!」と言ったんだ。すると「ウイリアムズ?、あなたなの?あなたのお母さんを知ってるわよ!なんて事なの」って言ったんだ。
この車で3か月半も捕まらなかったのにウイリアムが運転した日に見つかったんだ。車の持ち主が彼を見て頭を吹き飛ばすところだったんだよ。」
(Prince's Friend) (youtube) (2018/05/11)


1973
310 East 38th Street. Minneapolis
Bryant Junior High School 9

(Bryant Junior High 1973 Yearbook) 
( ブライアント中学校 9th Grade)
(日本の中学3年生) (6月以降なら15才)


1973 September ->
3416 South 4th Avenue. Minneapolis
Central High School 10

( セントラル高校 10th Grade 15才)
(日本の高校1年生 15才)
Jimmy Jam
「彼は背が低かったけれど、自信に満ち溢れていました。素晴らしいバスケットボール選手だったからです。ポイントガードとして、パスを配り、ハンドリングも素晴らしく、シュートも強烈でした。ステフィン・カリーは、文字通りプリンスのプレースタイルを思い出させます。コートを駆け上がると、女子生徒が「あぁ!プリンス!」と叫んでいました。本当にすごかったです。私たちが住んでいた地域のミネアポリス・セントラル高校はバスケットボールの名門校として知られていて、プレーできれば皆から尊敬されていました」
(Billboard.com) (2016/04/26)


1974
1974
Grand Central
パーカッショニストのウィリアム・“ハリウッド”・ダウティがグランド・セントラルに加わり、ジョンがプリンスにファルフィサのオルガンを贈った後、アンドレの姉リンダがグループで演奏を始めた。リンダがキーボードを担当することで、プリンスはリードギターを弾くことができた。彼らはスライ&ザ・ファミリー・ストーン、グランド・ファンク・レイルロード、サンタナといったお気に入りのバンドのカバーを披露し、プリンスとアンドレが主に書いたオリジナル曲にも手を広げていった。バンドは学校のダンスパーティーやパーティー、そしてバンド対抗戦などで演奏した。

Andre Anderson ( Bass)
Prince Rogers Nelson
Terrance Terry Jackson (Timbales)
Morris Day ( Drums)
Linda Anderson ( Key)
William"Hollywood"Doughty ( Congas)


William"Hollywood"Doughty
(West High School Yearbook 1974)



Andre Cymone
「リンカーン中学校に通っていた頃、放課後にノース高校のフットボール場でダウティがジャムセッションをしていた時のことを覚えてる。家に行くにはフットボール場を通らなければならないので歩いていると、ある男の演奏が聞こえてきたんだ。本当に信じられないほど素晴らしかったんで、ただ座って彼の演奏を聴いていた。ダウティをすぐに自分のバンドに誘おうとしたんだけど、彼をバンドに引き入れるまでには数年掛かった。7年生の頃にダウティはすでに人気があってノースサイドの他のバンドでも演奏していたからね。」
(The Current) (2019)

Terrence Terry Jackson
「ウィリアム・ダウティとは幼稚園の頃から知り合いだった、ジョン・ヘイ小学校ではダフティ、プリンス、そしてプリンスのいとこであるチャールズ・“チャズ”・スミスと一緒だった。俺たちは本当にアース・ウィンド・アンド・ファイアーのようになりたいと思っていたんだ。彼らはカリンバとティンバレスを使ったダブルパーカッションの編成で、もちろんサンタナの影響もあった。ウィリアム・ダウティがバンドに加入して、僕たちはそういう方向でスタートしたんだ。」
(The Current) (2019)

Linda Anderson
「ウイリアムは、パーカッションを曲の完璧な伴奏にする独特の直感を持っていました。
私たちはただ自分たちでギグを組んでいたの。近所を回って演奏したり、公園に機材を設置して演奏したりしてみんなが集まってきてくれた。」



1974
Grand Central
チャールズ・スミスはフットボールに夢中になり練習に来ないため解雇。後任として同じセントラルハイの1つ上のクラスに通うモーリス・デイが加入する。
Andre Cymone
「プリンスはチャールズと仲が悪かったんだと思う。あまりうまくいってなかった。そんな時にモーリス・デイが偶然やって来たのは本当に皮肉なことだった。モーリスはいつも俺のところにやって来て「なあ、俺はドラマーなんだ、君のバンドで演奏したいんだ。演奏はできるよ」と言っていた。俺は「もう俺たちにはドラマーがいるんだよ」と返した。それからも俺たちがギグをする時には、モーリスが来て「なあ、君のバンドで演奏してもいいかな?」と言ってたんだ。
そして中学校から高校に進学した時、俺より少し年上のモーリスがその学校に通うことになった。廊下を歩いていると「アンドレ、俺のドラムを聴いてくれ。すごく上手なんだよ」と言われた。それでバンドルームに入って彼が演奏を始めた。ドラムセットの下にカーペットが敷かれていなかったので、彼が演奏を始めるとドラムが滑ってしまった。それで彼はドラムが落ちないように必死で演奏していた。結局、ドラムは台から転がり落ちてしまった。俺が出て行くと彼から電話がかかってきて「うちの家に来て演奏を聴いてくれ」って言われた。それで彼の家に行くと、彼はタワー・オブ・パワーの「What is Hip」に合わせて隅々まで演奏してくれた。完全に圧倒されたよ。彼は左利きなのに、あんな風に演奏する人を今まで見たことがなかった。「やった!君に決定だ!」って思ったよ。
彼はドラムを持って来て、プリンスに「演奏を聴いてくれ」って言ったんだ。チャールズとは今でも良い友達だった。でも彼は俺たちの音楽をもっと次のレベルに引き上げられると感じたんだ。モーリスが来てみんなでジャムセッションをした。モーリスは白いフェンダー・ベースも持ってたんだけど、それは状況に合わせてついてきたものだった(笑)。とにかく、こうしてモーリスはバンドに加わったんだ。確か1973年か74年頃だったと思う。」
(Billboard.com) (2016/04/28)



Charles"Chazz"Smith
「ある日、フットボールの練習から帰ると僕のドラムが移動されていて、モーリスの家で見た小さな木製のドラムセットがそこにあったんだ。もちろん僕はショックを受けた。なぜなら彼らは僕の兄弟のようだったからね。」
(Prince Unauthorized) 1992年テレビ

Andre Cymone

「モーリスの母親は美人で、パム・グリアを思い出させるようなゴージャスな女性だった。俺は完全に夢中だった。「ライブをやるわよ」と彼女が言えば、俺は早めに到着することができた。それは俺にとっては珍しいことだった。どういうわけか彼女はレッド・フォックスやアイザック・ヘイズといった人たちを知っていた。彼女はヘイズに連絡を取り、息子のグループのマネージメントをしているから、彼も参加する気はないかと尋ねた。彼女は彼に俺たちのデモの1枚を送ったに違いない。彼はイエスと言って、俺たちがスーパースターになる手助けをしてくれると言った。彼女は俺にそれを伝え、俺は学校を辞めて、みんなに家庭教師をつけるとかそういうことを話してた。でもプリンスは賢かった。彼は学校に通い続けたんだよ。」
(Billboard.com) (2016/04/28)



プリンスは高校時代に公立学校のアーバン・アーツ・プログラムに参加しており、「ミネソタ・ダンス・シアター」でダンスのトレーニングを行っていた。

「ミネソタ・ダンス・シアター」は1962年に振付師ロイス・ホルトンによて設立され、現在も古典舞踊と現代舞踊を教えている。

Lise Houlton (ロイス・ホルトンの娘)
「母とウォーリー・ケネディは、伝統的な学問の世界には馴染めない私たちのような人々のために、ツインシティーズでこのプログラムを開発していました。母がアーバン・アーツ・プログラムを通じてプリンスと出会ったのは、そういう経緯があったからです。そして彼女は、彼には特別な輝きがあり何か特別なものがあることにすぐに気づいたと思います。彼女は、この飽くことのない食欲と悲しみの組み合わせがある種のエネルギーの燃焼として一緒になったと話していました。そして、彼女も同じような性質を持っていたため、2人に共通点があったのだと思います。」
       
1974 (1975 ?)
1244 Russell Avenue North. Minneapolis
Bernadette Anderson's House
Grand Central

(Photo-Charles Chamblis)
Linda Anderson ( Key) アンドレの妹
Andre Anderson ( Bass)
Morris Day ( Drums)
Terrance Terry Jackson (Timbales)
Prince Rogers Nelson (15才)
William"Hollywood"Doughty ( Congas)


1974
1913 Plymouth Avenue North
The Way Community Center
(The New Way)

1970年代中頃にソニー・トンプソンのThe FamilyをハウスバンドとしてBattle Of The Bandsコンテストとコンサートを開催、Grand Central. Flyte Tyme. Cohesion.が出場していた。建物は1980年代に取り壊され現在は警察署になっている。
1974
"Loring Park"Minneapolis
FacebookTerrance Terry Jackson

Prince Rogers Nelson
Terrance Terry Jackson
Aaron Jenkins
Andre Anderson
William"Hollywood"Doughty

(15才)








       
July 11. 1974
1130 Nicollet Mall.Minneapolis

Dedication Ceremony
of the Demolition of the YWCA

Grand Central

Prince Rogers Nelson ( Guitar. Vo) (16才)
Andre Anderson ( Bass. Vo)
Linda Anderson ( Key)
Morris Day ( Drums)
Terry Jackson (Timbales)
William"Hollywood"Doughty ( Congas)
バーナテッドの働きかけによりグランド・セントラルはYWCA解体式で演奏する。


Minnesota HIstorical Society (1:34)



July 28. 1974
St.Paul to Fort Snelling & back on the
Mississippi
Soul Cruise
Grand Central

YWCAが主催するクルーズ船での演奏をバーナテッドから依頼される。





1974
3416 South 4th Avenue. Minneapolis
Central High School 10

(Centralr High 1974 Yearbook) 
( セントラル高校 10th Grade)
(日本の高校1年生  (6月以降なら16才)



1974 September ->
3416 South 4th Avenue. Minneapolis
Central High School 11
(セントラル高校 11th Grade)
(日本の高校2年生) (16才)

Jellybean Johnson
「私たちはライバル関係のバンドでした。私はフライト・タイムにいました。フライト・タイムは12、13人くらいでした。グランド・セントラルは5人くらいでしたが、彼らはめちゃくちゃファンキーでした。彼らは私たちのやっていることを見て、私たちも彼らのやっていることを見て、いつも…差別とかそういうものを乗り越えて…特定の場所でしか演奏できなかったので、いつも…エルクス・クラブかサンダーバードか、女子学生クラブみたいなところで演奏していました。そういう場所で演奏していました。たまにナイトクラブとかで演奏することもありましたが、当時私たちは15、16、17歳でした。そこにいるべきではなかったのですが、実際にそこにいたのです。
「バンドバトル」を北のノースコモンズパークでよくやっていました。有名になる前からやってました。北側では有名だった。ノースコモンズパークには見渡す限りの人が集まって、とにかくクレイジーだった。一日中、夜までバンドが演奏してて、警察も何もなかった。あそこではいくつか事件もあったけど、大抵は誰も死ななかったし、特に何もなかった。僕の知る限りではね。すごく楽しかったよ。」


November 3.1974
"Minneapolis Auditorium"Minneapolis
Todd Rundgren Concert
コンサートを観にいく。

December (?) 1974
"Minneapolis
プリンスの従姉妹のショーンテルと結婚したペペ・ウイリーは、ニューヨークの電話会社を辞めてミネソタに移住した。ミネアポリスでペペは自身のデモの制作に取り組み始めていた。ある時、スキーパーディーで演奏していたグランド・セントラルを観て興味を持ったペペ・ウイリーはバンドに対して適切なリハーサルを手伝い、曲の構成や音楽ビジネスを教えた。
Prince Rogers Nelson ( Guitar. Vo)

Andre Anderson ( Bass. Vo)
Linda Anderson ( Key)
Morris Day ( Drums)
William"Hollywood"Doughty ( Congas)
Pepe Willie
ショーンテルの家族がスキーに行くことになり、私もスキーの道具を買ってきて滑り方を覚えて、ただ遊んでいたんです。
その後パーティーがあってグランドセントラルが演奏したんですが、誰かがグランドセントラルのメンバーにプロデューサーが町に来て彼らをチェックするという噂を伝えたんです。それでパーディーに行くとマネージャーをしていたモーリスのお母さんがパーティーの間ずっと私を見ていたんです。それで彼女と挨拶して「彼らとやってみたいね」と言ったんです。すると彼女は家の屋根裏にリハーサルルームを作ったんですが、リハーサルで1曲聴かせて欲しいと言うとプリンスは自分で書いた「Sexmachine」という曲を演奏しました。」
(Prince Podcast) (2021)



Pepe Willie
「スキーパーティーの数日後、私は彼らとリハーサルを始めました。場所はモリス(デイ)の母親の家でした。プリンスが複数の楽器を演奏できることを知ったのは、彼らとリハーサルをしてから1ヶ月くらいだったと思います。彼はただのギタリストだと思っていました。
ある日、私たちは屋根裏部屋(デイの家)で練習していたんだけど、突然プリンスが音楽を止めて、バンドメイトのリンダ・アンダーソンのところへ行って、「リンダ、君がキーボードで弾くべきなのはこれだ」と言ってコードを弾き始めた。それから彼はギターに戻り、二人とも演奏を始めたんだけど、彼はまた演奏をやめてアンドレ・シモーンを見ると、「アンドレ、ベースを借しくれ」と言い、アンドレからベースを受け取ると、まるで4年間もベースを弾いてきたかのように弾き始めた。まだ16歳なのにね。その上アンドレはプリンスが弾かせたいことを正確に弾いたんだ。アンドレはプリンスがリックを最後まで弾く前に止めたんだけど、彼はプリンスが何を望んでいるか分かっていたんだ。」
(Mpls St Paul) (2016)

December.1974
"2541 Nicollet Ave."Minneapolis
Cookhouse Recording Studios
"Grand Central"
You Remind Me Of Me ( Andre)
Whenever ( Prince)
It's Too Late
Love Unlimited
( Prince)
Prince Rogers Nelson (Vo & G)
Charles"Chazz"Smiths (Drums) (モーリスデイ?)
Andre Anderson (Bass)
Linda Anderson (Key)
William"Hollywood"Doughty (Per)


グランド・セントラルはNorth Commons Parkで行われた「Battle Of The Bands」コンテストの優勝賞金75ドルで8時間のレコーディングを行う。ペペ・ウイリーがプロデュース。



December 27.30.1974
"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80
Bob Dylan
"Idiot Wind
"You're Big Girl Now
"Tangled Up In Blue
"Lily,Rosemary And The Jack Of Hearts
"If You See Her,Say Hello

ボブ・ディランはニューヨークで完成させていたアルバム「血の轍」の収録曲のうち5曲をサウンド80で再度録音する。


1975
1975
Minneapolis
Grand Central Performing
At The Fashion Show

Grand Central

Prince (Key)
Andre Cymone (G)
Morris Day (D)




1975
Los Angeles
TV「青い渇き」
"Sarah T Portrait Of A Teenage Alcoholic"



高校生のリサ・コールマンはリンダ・ブレアとマーク・ハミルが出演するテレビドラマ"Sarah T Portrait Of A Teenage Alcoholic"で脇役のビアニストを演じる。

1975 (?)
Minneapolis

(16才)

プリンスはウッドストックでジミ・ヘンドリックスが使用していた同じバニラ色のストラトキャスターを購入した。
(16才)




March 1975 ( ?)
1244 Russell Avenue North.Minneapolis
Grand Central

Prince (Vo)
Andre Anderson (Vo & Bass)
Morris Day (?) (Drums)




1975 (?)
Minneapolis



Linda Anderson (Key)
Andre Cymone (Bass)
Morris Day (Drums)
Prince
William"Hollywood"Doughty (Percussion)




1975 September ->
3416 South 4th Avenue. Minneapolis
Central High School 12
(セントラル高校 12th Grade)
(日本の高校3年生) (17才)


1975 Fall (January 1976 ?)
この頃にバンド名をGrand Central Corporationに変更する(?)







December 4.1975
"2541 Nicollet Ave."Minneapolis
Cookhouse Recording Studios
94 EAST"The Cookhouse 5"
"If We Don't ( Pepe Willie)
"If You See Me #1
( Pepe Willie)
"I'll Always Love You
( Pepe Willie)
"Games
( Pepe Willie)
"Better Than You Think
( Pepe Willie)




ペペ・ウイリーが在籍していた94 EASTのレコーディングにリードギターを弾いて欲しいと頼まれ、4時間で5曲の録音を行う。プロとして初めてのレコーディングだった。しかしポリドールとのレコード契約が破談になったため、10年以上もの間、曲はお蔵入りとなった。
Pepe Willie
「当時、プリンスはちゃんとした環境でのレコーディングをまだ経験したことがなかった。そこで私は、クック・ハウス・レコーディング・スタジオで94イーストのレコーディングをしていたある日、彼をスタジオに呼んだんだ。興奮した様子でやって来て、私は「Game」、「If You See M」、「I'll Always Love You」、「If We Don't」、「Better Then You Think」の5曲入りのテープを渡して、弾いてみろと言って、バンドの他のメンバーと同じように扱ったんだ。
スタジオを押さえていた4時間のうちに、私たちは5曲すべてを録り終えた。ほとんどリハーサルもしていなかったにも関わらず、全員が素晴らしいパフォーマンスをしてみせた。その時の曲は『ザ・クックハウス5』に収録されているよ。
私はレコーディングセッションに数多く参加してきたが、プリンスはその辺のセッションプレイヤーよりもずっと優れたミュージシャンだった。私が知るどのギタリストよりも、彼は見事にギターを弾いてみせた。本当に驚かされたよ。私なんか彼の足元にも及ばなかったんだ(笑)」

1976
January (?).1976
"ASI Studio"Minneapolis
"Champagne (Grand Central)"
"Machine (Sexmachine)
"Lady Pleasure
"39th St. Party
( Andre Cymone)
"You're Such A Fox
"Grand Central
"Whenever

Prince (Guitar & Keyboards)
Andre Anderson (Bass)
Morris Day (Drums)

プリンス、アンドレ、モーリスは1976年初頭までライブパフォーマンスを続けミネアポリス北部のA.S.I.スタジオで、「シャンパン」というバンド名で6曲のオリジナル曲をレコーディングした。デヴィッド・リヴキンはスタジオのサウンドエンジニアとしてレコーディングを手伝った。セントルイス・パーク出身のリヴキンと弟のボビーは、その後数年間、プリンスの名声向上に重要な役割を果たすことになる。

(17才)
David"Z"Rivkin
「当時は全員アマチュアでプリンスにも特別素晴らしい才能と感じる事はなかった。」

このデモを聴いた元スタックス・レコードのスター、アイザック・ヘイズがグループに興味を持ち、自身の HBS(ホット・バタード・ソウル) レコードレーベルでの契約を約束した。アンドレはこの知らせを受けて学校を中退した。プリンスはそのまま学校に通い続けた。その数週間後にアンドレは「誰かがジェット誌を見せてくれたんだ。アイザック・ヘイズが破産を申請したという記事が載っていたんだ。それで『よし、学校に戻らなきゃ』と思ったんだ。」

January 16. 1976
"Northrop Auditorium"Minneapolis
Joni Mitchell Concert
2005年のニューヨーク・タイムズ紙のインタビューによるとミッチェルは1976年にミネソタでのコンサートで群衆の中で十代のプリンスに気づいていたと話す。
Joni Mitchell
「プリンスはミネソタで私のコンサートに来てくれました。彼がまだ幼かったのに最前列に座っていたのを覚えています。確か15歳くらいだったと思います。彼は通路側の席に座っていて、目が異常に大きかった。襟を立てて、左右に目を凝らしながらショー全体を見ていた。彼を見逃すことはできなかった。彼は小さな王子様のようだった。」
(New York Times Magazine)





February 13. 1976
3416 South 4th Avenue. Minneapolis
Central High School
"Central High Pioneer"

「グランド・セントラル・コーポレーションで演奏しています。2年間一緒に演奏しています。」と、セントラル高校の3年生、プリンス・ネルソンは言いました。プリンスは7歳でピアノを始め、8年生を終えるとギターを始めました。「バンドがこの状態で成功するのは、とても難しいと思う。この州には大きなレコード会社やスタジオがないからね。もし僕たちがロサンゼルスやニューヨーク、あるいは他の大都市に住んでいたら、今ではもう乗り越えられたと思う。」
 (17才)


David"Z"Rivkin
「プリンスはその頃ずっとアンドレと友達だったんだけど、アンドレはバンドから離れて自分のやりたいことをやりたがっていた。当時はみんな自分のやりたい事があったんだ。」


1976 (?)
Minneapolis

Prince
Amandilo Cuzan
William"Hollywood"Doughty

1976
"Champagne (Grand Central)"

(Photo-Charles Chamblis)
Morris Day (Drums)
William"Hollywood"Doughty (Percussion)
Andre Cymone (Bass)
Linda Anderson (Key)
プリンスとテリー・ジャクソンがバンドを去ると、バンド名がグランド・セントラル・ステーションと混同されるため「シャンペイン」に改名。その後シャンペインは1978年に解散。


       
June. 1976
1244 Russell Avenue North. Minneapolis
Bernadette Anderson's House
Sweet Thing (Vo & Acoustic Guitar)
(4:23)
Leaving For New York (Vo & Piano)
(5:52)
I Spend My Time Loving You
(Vo & Acoustic Guitar) (7:20)
Don't You Wanna Ride
(Vo & Acoustic Guitar) (5:14)
Hey Lover
(Vo & Acoustic Guitar) (0:46)
Rock Me, Lover
(Vo & Acoustic Guitar) (3:51)
Nightgale (Vo & Acoustic Guitar)(4:16)
"Work It 2.0 Updated Vol.1"( D1)
1976
1244 Russell Avenue North. Minneapolis
Bernadette Anderson's House
Instrumental #1 (0:40)
Instrumental #2 (0:37)
Instrumental
#3 (0:52)
Instrumental
#4 (1:00)
Instrumental #5 (0:58)
Untitled #1 (0:34)
Untitled #2 (0:30)
Untitled #3 (0:11)
Untitled #4 (0:15)
Instrumental #6 (7:26)
Instrumental #6 (0:40)
"Work It 2.0 Updated Vol.1"( D1)
1976
1244 Russell Avenue North. Minneapolis
Bernadette Anderson's House
For You #1 (1:08)
For You #2 (0:45)
For You #3 (1:18)
For You #4 (1:21)
"Work It 2.0 Updated Vol.1"( D1)


Bernadette Anderson's House
Wouldn't You Love to Love Me?#1
(Vo & Acoustic Guitar)
"Work It 2.0 Updated Vol.1"( D1) (3:53)
June 1976
3416 South 4th Avenue. Minneapolis
Central High School
音楽に集中するため6月に高校を卒業 (18才)
※セントラルハイスクールは1982年に閉鎖され、その後解体された。
Prince Rogers Nelson
「高校を卒業してからしばらくは面白い日々が続いた。だってお金も学校にも行かなかったし、扶養家族も子供もガールフレンドも何もなかったんだから。すべてから完全に切り離されていた。それで本格的に曲作りを始めたんだ。1日に3、4曲書いていたよ」


       
Spring 1976
"4937 South 28th Avenue"Minneapolis
Moon Sound Studio

1976年春、ドーハティはプリンス、アンドレ、モーリスを連れて、レイク・ノコミス近くのクリス・ムーンのムーン・サウンド・スタジオでデモを録音した。他のスタジオに比べてムーンのレコーディング料は控えめだったため、多くの黒人アーティストがデモテープを録音することができた。作詞家、プロデューサー、サウンドエンジニアを兼任していたムーンは、演奏活動には興味がなく、自分の曲を録音してくれるバンドを探していた
※76年前半までのスタジオ。その年の後半に引っ越す。。
Chris Moon
「3人でしばらくレコーディングをした後、アンドレとモーリスは休憩を取り、アイスクリームを食べに道を挟んで散歩した。でも物静かなプリンスが残っていたことを覚えている。彼はミスター・パーソナリティ、一人でいたいタイプ、身長165cm、アフロヘアの小柄な子供、子供というよりアフロヘア」

Bobby Z.
「1976年、私はミネアポリスのムーン・サウンド・スタジオで、別のバンドと仕事をしていました。プリンスはスタジオAで最初のテープを制作していました。それはまるでダイナマイト、火薬のようでした。ある朝、廊下を歩いている時にその音が聞こえました。スタジオに入ると、プリンスのアフロヘアが見えました。
私は彼のマネージャーの下で配達ドライバーとして働いていましたが、プリンスの運転手に転向しました。7ヶ月間、私たちはほぼ二人きりで過ごしました。友人として絆が深かったので、結果的にドラマーの仕事を得るのが難しくなりました。彼が私を雇ってくれたこと、そしてずっと一緒にいてくれたことに、心から感謝しています。」
(The Guardian)
Summer (?) 1976-
"2828 Dupont Avenue South"
Moon Sound Studio

プリンスがスタジオで仕事をしているのを見て、コラボレーションを申し出た。プリンスは作曲と演奏を手伝う代わりに、スタジオの使用時間を無償で与えられるという契約だった。この契約は双方にとって良い結果をもたらした。ムーンは自分の歌詞を曲にすることができ、プリンスはレコーディング技術を学び、ソングライター兼ミュージシャンとして成長することができた。

ムーンからレコーディング技術を学び、複数のデモテープを製作する。
Aces
Baby
I'm Yours
Diamond Eye
Don't Forget
Since We've Been Together
Fantasy
Don't Hold Back
Jelly Jam
Leaving For New York
My Love Is Forever #1
この時期に録音されたデモテープを持ってプリンスはニューヨークのレコード会社に行くことになる。


Summer. 1976
"2828 Dupont Avenue South"
Moon Sound Studio
Soft And Wet #1
"Blast From The Past 4.0"( D1) (3:17)


"2828 Dupont Avenue South"
Moon Sound Studio
Make It Through The Storm #1


July (?).1976
Queens. New York

Prince. Sharon
デモテープを持ってプリンスはニューヨークの異母姉シャロン・ネルソンの家に滞在し、レコード会社との契約を取ろうとするが、セルフプロデュースを希望するプリンスと話しがまとまらず、メジャーレーベルとの契約には至らなかった。
 (18才)







Summer.1976
Minneapolis
Chris Moon
「彼は私のところにやって来て、「あなたにマネージャーになってほしい」と言った。私は「とんでもない。マネージャーになる気はないよ。音楽が好きだからやっているんだ。ホテルを予約したり、飛行機に乗れるか確認したり、部屋に食事があるか確認したりすることには全く興味がない。そういうことは誰かにやらせるけど、マネージャーはやらない。そういう仕事に興味がないんだ。」
私がプリンスのマネージャーを探そうとしたとき、オーウェンがすぐに頭に浮かびました。オーウェンは別のアーティストのマネージャーをしていました。当時スタジオでレコーディングをしていたフォーク・アーティストです。オーウェンは時々スタジオに来て、レコーディング中は私の隣に座っていました。彼は、フォークソングを歌う、いかにもきちんとした白人の男性二人組と仕事をしていました。彼は堅実なマネージャーで、優れたビジネスマンでもありました。小さな広告代理店を経営していて、その広告代理店での経験と、私がプリンスに注ぎ込んだマーケティング要素を、次のステップに活かすための理解力を持っていました。」


Owen Husney (マネージャー)
「クリス・ムーンが私に電話を掛けてきて、素晴らしいアーティストがいるので私に会いたいと言われた。彼は私のオフィスに来てデモテープを聴かせてくれた。最初の曲を聴いたとき私は「これは本物だ!このグループは誰だ?」と聞くと彼は「16歳(当時18歳)の少年が曲を作り、自分で歌って、全ての楽器を演奏しているのだ。」と言った。今どこにいる?と聞くと「ニューヨークの姉のところにいるんだ」と言い、私は電話して彼は戻って来たんだ。それがプリンスだった。私はその時に彼をマネージメントして仕事に携わろうって決めたんだ。

       
October.1976
"430 Oak Grove"Minneapolis
Owen Husney's Office

プリンスはミネアポリスに戻るとムーンからデモテープを受け取っていた広告代理店の経営者オーウェン・ハスニーとビジネスパートナーのゲイリー・レビンソンが設立した会社アメリカン・アーティスツと正式にマネージメント契約を結ぶ。

※建物はローリングパークの南端に位置し、生命保険の事務所として機能していたが、1960年代初頭に元の所有者が引っ越したあとはマルチなテナント使用に変更された。
2011年には豪華なアパートメントに再開発された。

Owen Husney (マネージャー)
「私たちはデモテープを作ろうとしました。ムーン・サウンドのデモでは契約できないことは分かっていました。8トラック録音だったんです。音質も良くないし、曲も長すぎました。バンド仲間にデヴィッド・リヴキンがいました。今はデヴィッド・Zと呼ばれています。彼はエンジニアリングとレコーディングの世界に足を踏み入れていました。実際、デヴィッドはおそらく先駆者の一人でしょう。プリンスよりずっと前から、ミネアポリスの若い黒人ミュージシャンやバンドのレコーディングに尽力していたからです。デヴィッドと私は若い頃、それぞれ競合するバンドに所属していました。その後、彼は私のバンドに加わり、長い間ツアーをしました。私にとって、デモを作れるのはデヴィッドしかいませんでした。
私たちはミネアポリスのサウンド80スタジオでレコーディングしました。本当によくできたデモを3曲だけ欲しいと思っていました。」
Fall 1976
"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80



First Demo Session (Photo - Owen Husney)


オーウェン・ハスニーが録音費用を負担し、プリンスは新しいスタジオに移りデモテープの製作を再び行った。エンジニアにはデビッド・リヴキンが選ばれる。
David"Z"Rivkin
「どうして自分が選ばれたのか分からない。たぶん僕はその街のことを知り尽くし、何が起こっているのかを知っていた数少ないエンジニアの一人だったからかな。それに他のみんなみたいにテレビCMをやっていなかった。彼らがやっていたのはそれだけだったんだ」

David"Z"Rivkin
「当時18歳だったプリンスは、すでに一人で作業を始めていた。彼は素晴らしい新曲をいくつも持っていて、そのすべてのパートを小さなカセットテープに録音していたんです。ピアノのパートをハミングして、それからドラムのビートをハミングして、ギターのパートをハミングして。彼がドラムを始める前にはドラムのパートを聴いていました。ピアノもベースも同じです。彼は綿密に計画を立てそれをすべて自分で演奏することができたんです。これは本当に珍しいことです」

Fall 1976
"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80
Make It Through The Storm #2
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D2) (2:45)



"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80
94 EAST ファーストシングル用レコーディング
"Fortune Teller
"10:15

(プリンスは2曲でバッキングギターを弾く)
ペペ・ウィリーは94イーストの録音をニューヨークに持ち込み、ポリドールと単発のシングル契約を結ぶ。そしてポリドールの推薦によりボーカリストにカーネル・エイブラムスを迎え、「Fortune Seller」と「10:15」の2曲がレコーディングをミネアポリスで行った。

プリンスが長い一日のレコーディングを終えてサウンド80を去ろうとしていた時、彼の師匠の一人であるペペ・ウィリーが彼のバンド94イーストと共にレコーディングにやって来るところだった。プリンスはセッションに立ち会わせてほしいと頼み、ウィリーは快諾した。
Pepe Willie
「サウンド80に入ったら、プリンスが私たちを見て「何してるの?」って聞いたんだ。私が「シングルをレコーディングする準備をしているところなんだ」って答えるとプリンスは「え〜!」って言ったんだ。そして彼が「僕も弾いていい?」って聞いたから、「ああ、頼むよ!」って感じだった。彼は自分のセッションの後も家に帰らず、スタジオで私たちと一緒に過ごし、『10.15』と『Fortune Teller』でギターを弾いたんだ。」
(2016)













December. 1976-1978
"2012 Aldrich Ave South"Minnepolis

アンドレの家から移り住んだアパート。オーウェン・ハスニーがプリンスのためにアップタウンのアパートを見つけ、プリンスが音楽に集中できるように家賃を支払った。



December. 1976

"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80
"The Lewis Connection"
Got To Be Something Here
Prince - Guitar & Background Vocals
ソニー・トンプソンのバンド「ルイス・コネクション」のレコーディングにギターとバッキング・ヴォーカルで参加。プリンスが書いた曲はない。


"MLF(Music,Love and Funk)"
Stonelover
Prince - Guitar

Pierre Lewis - Key boards & Flute
Andre Lewis - Drums
Sonny Thompson Vo & Bass
Randy Barber - Background Vocals
Bill Perry - Tenor Sax
Jeffery Tresvant - Trumpet



1977
January.1977
"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80



(Photo- Gary Levinson)
プリンスとRodger Dodger MusicのRodger Dumas


プリンスはデモテープ制作を12月29日から始めた。曲にストリングスを加えるためミネアポリスのラジオ局のミュージシャンWAYLオーケストラが招聘されたが、プリンスは最終的な結果に満足せず、代わりにシンセサイザーの使用を希望した。しかし彼がシンセサイザーを使用するのは初めてだったため、ロジャー・デュマスがプリンスにOberheim 4の使い方を教えなければならなかった。

January.1977
"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80
1.Make It Through The Storm
2.Baby
3.Soft And Wet #2 (Re-Recording)
"Blast From The Past 4.0"( D1) (3:01)
4.My Love Is Forever #2
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D2) (4:07)
5.I Hope We Can Work It Out
6.Make It Through The Storm
7.Jelly Jam

(※2017年ヘリテージ・オークションでオープン・リールが出品される。)

1977
Minneapolis
Owen Husney (マネージャー)
「彼の服装は今とは全く違っていました。彼が着ていた服は、裕福な男の服ではありませんでした。でも、彼はそれをできる限り手際よく着こなしていました。ジーンズを何枚か持っていて、アイロンがけされていて、ジーンズの真ん中に小さな折り目が付けられていました。それに、ジージャンのようなものと、茶色のタートルネックのセーターを着ていたかもしれません。18歳の若者の多くと同じように、彼にもニキビなどがありました。彼はかなり大きなアフロヘアで、私はそれをJ7と呼んでいました。ジャクソン5が人気で、彼らはもっと短いアフロヘアをしていて、それがJ5だったからです。だからJ7と呼んでいました。もしかしたらJ8かもしれません。とても大きかったんです。」
(GQ)
February 24. 1977
"4937 South 28th Avenue"Minneapolis
Moon Sound Studio


(Photo- Larry Falk)
2月下旬、ミネソタ大学の学生ラリー・フォークとリサ・ヘンリクソンは、キャンパス紙「ミネソタ・デイリー」の取材でクリス・ムーンのムーンサウンド・スタジオを訪れた。写真担当のフォークとレポーターのヘンリクソンは、地元の10代のミュージシャンが独りで自分のデモを制作し、多数の楽器を使って演奏するプロジェクトについてマネージャーのオーウェン・ハズニーから説明を受ける。
 (18才)
       
February 1977
Minneapolis
ゲイリー・レビンソンは写真家のロバート・ウィットマンにプリンスの写真を撮るように依頼するため、ウィットマンのアパートを訪れ彼の車のステレオで「ソフトアンドウェット」の初期のデモを聴かせた。
Robert Whitman (フォトグラファー)
「結局、3回に分けて撮影することになりました。ミネアポリスのケンプス・アイスクリーム・ビルに小さなスタジオを構えました。シームレスカメラ1台とポータブルフラッシュ1台を持っていました。最初の撮影はそこで行いました。その後、ミネアポリスのダウンタウンで別のセッションを行いました。そこで撮れたのが音符が書かれた白い壁を背にした最も象徴的な一枚です。その建物はシュミット・ミュージック・カンパニーのものでした。そして、オーウェンの自宅でも撮影を行いました。オーウェンの愛犬と一緒にテーブルに座ってピアノを弾く姿を撮影しました。
彼はとてもとてもシャイでしたが、私に心を開いてくれて、いろいろ遊んでみたり、色々な衣装を試してみたりしてくれました。彼の髪の後ろに光を当てて、アフロヘアに後光が差すようにしてみました。スパンコールをつけ、レンズにスカーフを被せてみたのですが、うまくいきませんでした。シャツを脱がせてシャボン玉を吹かせてみたり。どれもアナログなやり方です。でも、彼は本当に心を開いてくれて、面白い瞬間が沢山撮れました。彼はまだ若くて、撮影を始めたばかりの私もそうでした。

すごくひどいからこそ、いい写真もあるんです。本当にひどいショットもいくつかあります。トリミングがひどいものもありました。でも、素晴らしい表情もいくつかあります。彼が笑顔で写っている数少ない写真がいくつかあると思います。」
(workingnotworking.com) (2016/04/27)

February 25. 1977
"2709 East 25th Street"Minneapolis
@ Robert Whitman's Studio



(Photo- Robert Whitman)
レコード会社に向けて制作するプレスキット用のフォトセッションが、ロバート・ウィットマンによって3回行われた。

February 1977
Minneapolis
A Downtown



撮影はスタイリストもメイクアップアーティストも無しでプリンスとウィットマンだけで行った。


シュミットミュージックは後年この建物から引っ越した。外壁の楽譜はフランスの作曲者モーリス・ラヴェルによって書かれた「ガスダール・ド・ラ・ニュイ」と呼ばれるピアノ曲の第三章「スカボ」。

February 1977
Minneapolis
B Owen Husney's Home



Gary Levenson (Producer)
       
1977
Promotional Press Kit
Owen Husney (マネージャー)
「プレスキットを15枚作成し、7、8枚をメジャーレーベルに送りました。最初のマーケティング活動は、彼の年齢を1歳若く設定することだったんです。 18歳で彼がこれほどの価値があるなら、17歳でさらにその価値があることは分かっていました。」
(startribune.com)


1977
Promotional Press Kit

1.Just As Long As We're Together
2..My Love Is Forever
3.Jelly Jam

3曲入りのデモテープは1976年の冬から1977年の春にかけて、サウンド80スタジオで録音された。
トラックリストはプリンスの手描き
1977
"430 Oak Grove"Minneapolis
Owen Husney's Office
オーエン・ハスニーの事務所で録音。
Neurotic Lover's Bedroom
マネージャーのオーエンがドラムマシンを購入。レコーディングで初めて使用されたのはこの曲だと言われている。
=2020年9月 リーク音源= (6:08)
"Blast From The Past 7.0"( D1) (6:03)
リーク音源の左側のボーカルと右側のドラムをミックス

Hello, My Love
プリンスが恋に落ちたハスニーの秘書についての曲
I Like What You're Doing

David"Z"Rivkin
「ワーナー・ブラザーズの地域プロモーション担当だった従兄弟のクリフ・シーゲルが、私たちが録音した3曲を上司のラス・サイレットに渡しました。するとサイレットはそれを(A&R担当の)レニー・ワロンカーに渡したんです。ワロンカーは大喜びでした。この若者が何でもできるなんて信じられなかったんです。」
1977
"430 Oak Grove"Minneapolis
Owen Husney's Office
"The Loring Park Sessions"
Instrumental #1 (5:14)
Instrumental #2
(6:22)
Instrumental #3
(6:14)
Instrumental #4
(8:28)
Instrumnetal #5
(6:55)
Instrumental #6
(8:11)
Instrumnetal #7
(7:43)
Instrumental #8
(6:36)
ベースとドラム以外はプリンスが演奏したジャズファンク。この音源はハスニーのオフィスではなく、サウンド80で録音されたとも言われている。


Prince (Guitar & Keyboards)
Andre Cymone (Bass )
Bobby Z. Rvkin (Drums)
"Blast From The Past 1.0"( D1)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D2)

April 8. 1977
"The Village Recorder"Los Angeles
Just As Long As We're Together
(Test Recording for CBS)
"Blast From The Past 3.0"( D1) (5:42)

       
May 27.1977
"Beverly Wilshire Hotel"Los Angeles

ワーナーブラザーズ契約前にA&Mレコードに招かれた。


ハスニーはA&Mとコロンビアからのオファーを断り、ワーナー・ブラザースを選んだ。理由はワーナー・ブラザースの幹部がプリンスにクリエイティブ・コントロールと出版権を与え、デビュー作のプロデュースを任せてくれることに同意したからだった。

Russ Thyret
( プロモーション責任者)
「競争は熾烈でした。A&Mとコロンビアが彼と契約しようとしていて、非常に競争が激化しました。A&Mは彼の作品をリリースしたかったし、彼も譲らなかったので断りました。コロンビアは2枚組LPしか提供してくれませんでしたが、私たちは彼を強く信頼しているので、3枚組LPで契約することにしました。それに、私たちはアーティストを大切にしていたので、彼は私たちと契約してくれたんです」
(Billboard..com)
June.1977
"Amigo Sound Studios"Burbank
ワーナー・ブラザーズと契約が成立する前にリヴキンとプリンスは共にノースハリウッドにあるレーベルのアミーゴ・スタジオを訪れた。ワロンカーや幹部たちが一斉に集まり、プリンス自身で本当にできるかどうか確かめ、どのプロデューサーがプリンスと仕事をするかを決めるためだった。
ワロンカーと他の役員たちは、プリンスが「Just As Long As We're Together」の別バージョンをレコーディングしている間、そっとスタジオを出入りした。ハスニーの回想によれば「プリンスは彼らを用務員だと思っていた」という。プリンスがほぼ一日かけてあらゆる楽器を演奏し、曲を作り上げていく様子を見た幹部たちは、彼にプロデューサーを無理やり雇うのは愚かだと判断した。
David"Z"Rivkin
「ワーナー・ブラザーズと契約する前に、プリンス、オーウェン、そして僕はロサンゼルスへ飛び、本当に彼が全て自分でやれるのか証明するために行ったんだ。ワーナーのスタジオに着くと、レニー・ワロンカーがラス・タイトルマン、ゲイリー・カッツ、テッド・テンプルマンといったプロデューサーたちと一緒にいたんだ。彼らは最初のアルバムのプロデューサーを誰にするか決めようとしていたと思う。
オーウェンは既にプリンスにプロデュースを依頼していたけど。デモを再現するために、プリンスが全ての楽器を演奏し、ボーカルも担当するセッションをやって見せたんだ。それを見て彼らは『よし、彼ならできる』って思ったんだ。」
(startribune.com)

Lenny Waronker
( ワーナー・ブラザース副社長)
「才能だけ でなく、ビジョンもあったことが分かりました。 彼はギターを弾き始め、それからドラムをオーバーダビングしました。 ドラムパートを録音した頃には、その完成度は明らかでした。彼に全ての工程をやらせることで失礼なことをしたくはなかったのですが、 彼はどう してもやり遂げたかったのです。 私がスタジオを歩いていると、彼は 床に倒れていました。彼は顔を上げて「俺を黒人扱いしないでくれ」と言いました。私は「うわっ!」 と思いました。 彼は「俺のアイド ルはあちこちにいるんだ」 と言いました。彼が挙げた音楽の範囲は実に幅広く、18歳の若者があんなことを言ったとは驚きでした。」
(startribune.com)

June 25.1977
Los Angeles

(Cashbox Magazine)
ハスニーはA&Mとコロンビアの申し出を拒否し、ワーナーブラザースと100万ドルの契約を交わした。記事には17歳と書かれているが実際は19歳。
From Left: Russ Thyret, Prince, Mo Ostin, Owen Husney, Barry Gross


(Photo- Gary Levinson)
 (Prince 19才)


June (?) 1977
Minneapolis

契約のお祝いパーティーを開く。
From Left: Cliff Siegel, Hunsney, Britt, Prince, ?, Susan, Gary Levinson



June (?) 1977
"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80
We Can Work It Out (Basic Tracking)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D2) (3:02)

You Really Get To Me (Basic Tracking)
       
September. 1977
Minnepolis
ワーナー・ブラザーズはセルフプロデュースをプリンスに任せる事の引き換えとしてプロヂューサーにトミー・ヴィカロを送り込んだ。ヴァカロはアルバム制作の打ち合わせをするため、ミネアポリスのプリンスのアパートを訪問。部屋の中にはウォーターベッドにチャカ・カーンのポスターが貼ってあり、ゴミが散らかっていた。その後2人は外食と映画館に「スターウォーズ」を観に行った。



September. 1977

"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80

ファーストアルバムの制作のため「Sound 80」でレコーディングを始めようとするが レコーディング直前にスタジオ・コンソールが最新のものに交換されており、ヴァカリは新しいコンソールでは不具合があると判断した。




October1 - December 22. 1977
"Record Plant"Sausalito.Carifornia

トミー・ヴィカリの勧めでサウサリートの「レコードプラント」でレコーディングを開始した。すべてのヴォーカルパートと楽器を演奏し、自分でプロデュースを行おうと考え、エンジニアはスティーブ・ファンタノが担当した。


October1 - December 22. 1977
Mill Vallley. San Francisco

レコーディングの間ハスニー夫婦は友人のロンからミル・ヴァレーの一軒家を借りる。プリンスの希望で幼馴染のアンドレも呼ぶ事になった。
1階にプリンス、2階にヴィカリ、3階にハスニー夫妻。
(19才)
October1 - December 22. 1977
"Record Plant"Sausalito.Carifornia
Owen Husney (マネージャー)
「レコーディング中、1日休みになることもありました。彼らがよくやっていたことの一つが、僕がサンフランシスコまで車で彼らを送って行き、彼らはただ楽器店に行ってめちゃくちゃジャムセッションをするんです。
ある日、男から電話がかかってきて、「僕たちはサンタナのバンドのものなんだけど、カルロスが彼らのジャムセッションを見て、すごく気に入ったらしいんだ。僕たちの家に来て一緒に過ごしたいんだ」と言われました。プリンスはまだ最初のアルバムも出ていないのに、楽器店でジャムセッションをしただけで、当時のサンタナのような大物ミュージシャンに影響を与えたんです。
サンタナはタマルパイス山の頂上近くに住んでいて、自分の導師の教えに深く傾倒していたので、家はすべてが白く塗られていた。彼は私たちに靴を脱ぐように言ったんだけど、プリンスはブーツを脱がなかった。『誰に言われても脱がない』と言うんです。
ブーツはほんの少し丈が長かったはずだから、脱ぐということは身長を5センチほど低くするということだった。それでそのまま歩いて行った。サンタナと2人で部屋に入っていくと、白い床に泥が付いてるのが見えたのでプリンスは泥の中を歩いて来たに違いと思った、二人が歩いている間、サンタナに見られないよう、四つん這いになってできる限りの掃除をしたよ。」

October1 - December 22. 1977
"Record Plant"Sausalito.Carifornia
Steve Fontano (エンジニア)
「プリンスが少年時代から憧れだったスライ・ストーンと知り合いだったので、プリンスに紹介して欲しいと頼まれたんだ。当時の彼は何についても乗り気しない時期で、誰にも会いたがらなかった。俺は『スライ、俺のために頼む、ただ挨拶してくれるだけでいい。プリンスは天才なんだ。本当に凄いんだ!』と言って頼みこむと、スライはようやく承知してくれた。『よう、調子はどうだい?』なんて言いながらスタジオに入ってきたよ。プリンスはキーボードを弾いていて、立ち上がると握手を交わした。」


Tommy Vicari (プロデューサー)
「ある日、スライ・ストーンを探していたチャカ・カーンからスタジオに電話が有り、プリンスに電話に出るように言うとプリンスは5分間スライのマネをして会話した。その後スタジオにやって来たチャカ・カーンは騙された事に激怒した。」

Chaka Khan
「スライに呼ばれてスタジオのドアを開けたら人が1人だけいたの、他にはエンジニアも誰もいなかった。その男性はギターを弾いていて、あなたは誰と聞くとプリンスだと答えて「あなたに会いたくて僕が呼んだ」と言うの。スライは居ないのかと尋ねたら「僕が電話した」と言ったわ。彼によれば私の音楽が大好きですごく会いたかったそうよ。」
※電話を掛けたのがチャカかプリンスか不明。



Owen Husney (マネージャー)
「夜中の3時に家に帰って来たプリンスは寝室で眠っていた僕を起こして、チャカ・カーンに会った事を興奮気味に話してたよ。」

       
October1 - December 22. 1977
"Record Plant"Sausalito.Carifornia
Album"For You"Sessions
For You
In Love
Soft And Wet
Crazy You
Just As Long Sa We're Together
Baby
My Love Is Forever
So Blue
I'm Yours
(Re-Recording)
Prince - Vocals & Instrumetals
Andre Anderson - Bass
Steve Fontano - Drums
October (?) 1977
San Rafael.Carifornia
レコーディング中の休日にサン・ラファエルまでレンタカーでドライブをしたプリンスとアンドレは、立ち寄った楽器店でアンドレがSardonyxのベースを気に入り、プリンスが購入した。



October1 - December 22. 1977
"Record Plant"Sausalito.Carifornia
Album"For You"Sessions
Make It Through The Storm #3
"Blast From The Past 3.0"( D1) (2:42)
My Love Is Forever #3
(Basic Tracking)


November 4. 1977
"Record Plant"Sausalito.Carifornia
Shine Your Light/Red Zone
(Basic Tracking)
E-Pluribus Funk (Basic Tracking)
Bump This (Basic Tracking)


December 10. 1977
Waiting For You (Basic Tracking)
Life Is So Neat (Basic Tracking)



November 29. 1977
"St.Paul Civic Center"St.Paul
Esrth,Wind & Fire Concert
プリンス、コンサートを観に行く



December 23.. 1977
"Berlin.Germany
George Duke Group Concert
TV"Berliner Jazztage"



1978
January 1978
"2810 Montcaim Avenue"Los Angeles

サウンド・ラボででアルバム「For You」のミキシングを行う事になり、ボビーZもレコーディングメンバーに加わった。LAではオーウェン・ハスニーが家具付きの家を借りた。


January 1978
"Sound Labs"Los Angeles
Baby #1 (3:13)
Baby #2 (Instrumental) (3:21)
(Overdubs & Mixing)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D2)

My Love Is Forever
(Overdubs & Mixing)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D2) (4:07)
David"Z"Rivkin
「歌う番になったと思った、プリンスは俺の絶対音感を知っていて、歌うのにイライラしていたんだ。それで『デヴィッドにボーカルを頼む』って言ったんだ。1曲につき35トラックくらいボーカルを録った。俺は完全にやりすぎだと思ったし、後になって彼もやりすぎだと言ったと思う。」
(Billboard)
January 1978
"Circle Star Theatre"San Carlos
Al Jarreau Concert
プリンスはアル・ジャロウのコンサートに行き、バックステージで初めてパーカショニストのシーラ・エスコバートに出会う.

Sheila E.
「彼のことはよく聞いていました。自己紹介する必要があると思ったけれど私が名前を言う前に、彼は手を差し出してこう言ったんです。『君のことはもう知ってるよ。君のキャリアをずっと追いかけてるんだ』って。つまり彼はもうファンだったってこと。それで私たちはすぐに友達になって、一緒に遊ぶようになりました。」


December (?). 1977
New York

(Photo- Chris Callis)
 (Prince 19才)


February.1978
"Music Farm Studio"New York
"The Imperials Sessions"
One Man Jam (Pepe Willie)
If You Feel Like Dancin' (Pepe Willie)
I Feel For You (Prince)
Thrill You Of Kill You (Andre)
Do Me, Baby アンドレのリードヴォーカル
Andre Cymone (Vo) (B)
Prince (Guitar.Synthesizer.Key)
Pepe Willie (Synthesizer.Percussion




February 1978

『For You』の完成版を受け取ったムーンは、別の問題に直面した。軽快で至福の「My Love Is Forever」の共作者としてクレジットされなかったのだ。
Chris Moon
「オーウェンに電話して、『この件を解決するにはプリンスと話し合わないといけない』と言ったんです。それでプリンスから電話がかかってきて、『君が僕が半分書いた曲を持っているなら、君も半分書いた曲を1曲欲しい』と伝えました。それで合意し、彼は僕たちが一緒に作った曲の一つ「We'll Make It Through the Storm」を譲ってくれました」」
(Billboard)







February 1978
"Los Angeles (?)
"instagram.com"Diane Estelle Vicari

エンジニアのトミー・ヴィカリからグラミー賞のチケットを貰い、出席するためのスーツをヴィカリの妻でファッション・デザイナーのダイアンが3週間で作った。フィッティングに来たプリンスを居間で撮影。



February 23.1978
"Shrine Auditorium"Los Angeles
21st Annual"The Grammy Awards"

Prince, Britt Husney
       
March 17. 1978
"Northrup Auditorium"Minneapolis
Santana Concert
プリンス、ボビーZはサンタナのコンサートを観に行く。
Bobby Z.
「普段はオーウェンの広告会社の事務員だったんだけど、プリンスの面倒を見るのが仕事になったんだ。彼は車を運転できなかったけど、結局免許を取りに連れて行ったよ。アパートを見つけて、楽器を買った。愛車のピントのステーションワゴンで遊んだり、ノースロップでサンタナのコンサートに行ったりした。 (ハスニーの)オフィスの家具を移動したり、ほぼ毎晩夜明けまでジャムセッションしたりしていた。ほとんどの時間はアンドレと俺とプリンスの3人だった。」
(startribune.com)


Patrice Rushen
「ええ、電話で話したんです。私と一緒に仕事をしていたトミー・ヴィカリというエンジニアが彼とも一緒に仕事をしていたんです。ヴィカリは『 彼があなたの音楽を気に入っているんだけど、君たち会ってみたらどうだい?今度ワーナー・ブラザーズと契約することになったんだ。彼はファーストアルバムの制作にも携わる予定だし。君たちって複数の楽器を演奏したり作曲したりする点で共通点が多いよね。お互いを知っておくべきだと思ったんだ』って。それで電話で話したんです。プリンスってそんなに口数が多い人じゃなかったから、会話は短いものでした。彼は電話をかけてきて、どうやって特定の楽器で特定の音を出すのかとか、あれこれと質問攻めにしました。最初は音楽の話を中心に話が進みました。
ある時、アルバム『For You』の制作中に、彼は「Baby」という曲にストリングスを入れたいので私にアレンジを考えて欲しいと言いました。彼は自分でアレンジを用意していましたが、それをどう書き留めればいいのか、レコーディングの手順も分かっていませんでした。彼は私にアレンジを依頼し、「もちろん」と答えました。その後、彼は他のちょっとした仕事でも頼んできました。私たちは連絡を取り合っていました。
彼はジャムセッションをしたいと言っていたので、彼がこちらに来た時は、一緒に演奏できる機会を設けようとしましたが、マネージメントから連絡があり、「だめだ、これを終わらせなきゃ。今日はどこにも行けない。やることがたくさんある」と言われました。それで実現しませんでした。」
(Wax Poetics)

April 1978-1979
"5215 France Ave Street"Minnesota
France Avenue Home Studio

最初の家はボビーZが見つけ、1978年夏から1979年9月まで住んでいた。黄色の木造住宅にあるスタジオは8トラックのレコーディングが出来る基本的なものだった。この家でセカンドアルバムのデモテープ製作を開始した。




現在の家は全面改装されている

1978
"Minneapolis (?)
"Photo Sessions





(Photo- Joe Giannetti)
Joe Giannetti
「私が『For You』のアルバムカバー撮影を依頼された時、彼はまだ駆け出しの頃でした。当時、有色人種のメイクアップの仕方を理解しているメイクアップアーティストは多くありませんでした。でも、彼はそれを理解している人を見つけたんです。彼は巨大なアフロヘアで、切るつもりはないと明言していたので、ヘアスタイルがアルバムカバーを決定づけたような感じでした。彼は2人の友人と一緒にスタジオに来ました。3人ともとても気楽に作業を進めてくれて、他の多くのスタッフが少し緊張していたので、とても安心しました。でも、彼は駆け出しだったし、ワーナー・ブラザーズが費用を負担してくれることになっていたんです。
撮影は午後中ずっと続きました。撮影が長引くにつれて、彼はどんどんリラックスしていきました。しばらくすると、私たちはただ座って笑い合っていました。その後、アルバムのインサートを撮影するためにカリフォルニアへ出かけました。インサートは彼がベッドに座っている写真で、何も着ていないように見えますが、水着を着ています。とても控えめな写真でした。楕円形の窓と円形のベッドで、彼は演奏していました。とても素敵な写真でした。ちょっとワイルドな感じがするかもしれませんが、実際はそうではなく、とても上品に撮れていました。彼はとても良い人でした。」
(thefader.com)

April 7. 1978
"For You"発売

(Photo- Joe Giannetti)
(Art Director- Jeff Farmakes)

1.For You
2.In Love
3.Soft And Wet
4.Crazy You
5.Just As Long As We're Together
6.Baby
7.My Love Is Forever
8.So Blue
9.I'm Yours


アルバムジャケットでプリンスはアートディレクターに指示される事を嫌がり、フォトグラファーに部屋を暗くして髪の毛の後ろのろうそくの明かりだけで撮影するように指示した。
(Prince 19才)

David"Z"Rivkin
「彼は多くの人を苦しめた。彼は非常に厳しい人で、仕事をしていないと感じた人間に対して狙いを定め、それをやっつけるような人だった。
俺は幸運なことに彼の怒りを全く浴びたことがないけれど…彼は人を自分の支配下に置くのが好きだった。でも彼はただ不満をぶちまけていたのではなく、全体をコントロールしようとしていたんだ。彼はバンドに対してもいつもそう接していた。」
       
April 19. 1978
Minneapolis

(Photo-Darlene Pfister)



May/June 1978
"Insider"

和訳"Prince On Prince"(プリンス・インタビューズ)
Summer 1978
Minneapolis

地元の才能ある歌手の情報を頼りに、プリンスは16歳のスー・アン・カーウェルという歌手の公演を観に行った。歌うスー・アン・カーウェルを観たプリンスはレコーディングの計画を本人に持ち掛ける。
Sue Ann Carwell
「プリンスは女性シンガーを探していてクラブで私を見つけたんです。ほんの少しの間、プリンスのバンドに所属していました。レボリューションが始まる前からレボリューションにいたんですw。でも私はプリンスをバックでサポートする立場にはなりたくなかった。リードシンガーとして活躍したかったから。」











Summer 1978
"5215 France Ave Street"Minnesota
France Avenue Home Studio
Wouldn't You Love to Love Me?
(Basic Tracking) (Vo-Prince)
"Blast From The Past 1.0"( D1) (5:00)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (5:08)
Wouldn't You Love to Love Me?
(Basic Tracking) (Vo-Sue Ann Carwell)


Make It Through The Storm
(Re-Recording /Sue Ann Carwell)
"Wow"(3:13)

Since We've Been Togeher
(Basic Tracking) (Vo-Sue Ann Carwell)

I'm Saving It Up
(Basic Tracking) (Vo-Sue Ann Carwell)




スー・アン・カーウェルを気に入ったプリンスは自宅のスタジオで4曲分のデモを録音する。

プリンスはカーウェルのサイドプロジェクトの可能性に興奮し、そのデモ音源をワーナー・ブラザーズに持っていく計画を立てた。彼はカーウェルのイメージを作り上げ始め、「スージー・ストーン」という名前を使うよう提案した。しかし、彼女は自分の名前やキャリアをコントロールされることを望まず、このプロジェクトに難色を示した。その後Studio 80でレコーディングを行おうとするが、意見が合わず曲は完成しなかった。


Summer 1978
"2709 East 25th Street"Minneapolis
Sound 80
94 East レコーディング
Just Another Sucker (Demo)
"Blast From The Past 3.0"( D1) (5:18)
Dance To The Music Of The World
Lovin' Cup

レコード契約を失ったペペ・ウイリーはプリンス、アンドレとスタジオに入り3曲のレコーディングを行った。




Summer 1978
"Black Stars"(1978年11月発売)

「僕は自分を知ってもらうためにツアーに出るつもりです。そのためバンドを組むために6〜8人のメンバーを探しています。オーディションはカリフォルニアで行う予定です。」
「僕のキャリアにおいて欠点となるかもしれない要素は楽譜が読めない事です。今は問題にはなっていないけれど今後どうなるのか疑問ですね。」
 
       
September 1978
ワーナーのプロモーションマネージャーであるテディ・オースチンは最初のプロモーションツアーとしてラジオのインタビュー、レコード店訪問やサイン会等を計画した。




September 1978
Radio Station.Charlotte.North Carolina
Autograph Signing

Pepe Willie. Teddy Astin & Prince
2千人のためにサイン会を行ったが約20分で群衆が大きくなり始め、100枚程のサインでステージを急いで出て行かなくてはならなかった。
(Prince 20才)

September 1978
"Soul Shack"Charlotte
Autograph Signing

( Music Retailer Magazine)


Radio Station (?)

September 15.1978
"Unique Records"San Francisco
Autograph Signing

W/Owen Husney
Owen Husney (マネージャー)
「サンフランシスコでラジオ局を訪問していたのですが、誰もお金がなかったので、プリンスと私はホテルの部屋を同室にしていました。プリンスはいつも夜通し大音量で音楽をかけていなければなりませんでした。それが彼にとって唯一の睡眠方法だったんです。午前4時に目覚まし時計ラジオが鳴り響いているのに、彼がぐっすり眠っていたのを覚えています。私が手を伸ばして電源ボタンを切ると、彼は飛び上がってこう言いました。「絶対にラジオを消すな。音楽は野獣を落ち着かせるんだ」。彼はラジオの電源を入れ直すと、ぐっすり眠りました。」
(startribune.com)
September 16. 1978
"Record Factory"Oakland
Autograph Signing




September 16.1978

"Greek Theatre"Berkeley
Al Jarreau Concert
       
1978/1979
"5215 France Ave Street"Minnesota
France Avenue Home Studio
Down A Long Lonely Road
(Acapella)
1978年又は1979年に録られたアカペラトラック
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (1:21)


"5215 France Ave Street"Minnesota
Miss You (Vocal & Acoustic Guitar)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (2:00)


"5215 France Ave Street"Minnesota
Baby,Baby,Baby
(Vocal & Acoustic Guitar)
1978年又は1979年に録られた即興のような曲
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (2:52)




1978/1979
"5215 France Ave Street"Minnesota

France Avenue Home Studio
Donna (Vocal & Acoustic Guitar)
(Vocal & Acoustic Guitar)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (4:11)
"Blast From The Past 3.0"( D1) (4:06)


"5215 France Ave Street"Minnesota
Nadera (Vocal & Acoustic Guitar)
当時付き合っていたナダラという女の子に向けて作られた曲
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (1:53)
Autumn 1978
まだ広告代理店で働いていたハスニーに対して、キャリアをスタートさせるという重要な時期に自分だけに集中してくれなかったことにプリンスは不満を抱いた。

ハスニーがプリンスにメジャーなレコーディング契約を結ばせるためにあらゆる努力を払ったにもかかわらず、プリンスはハスニーに対して敵対的な態度を取り続け、オーウェン・ハスニーのアメリカン・アーティスツとの契約を解消した。
ウィリーは臨時マネージャーとしてその穴を埋め、プリンスが全国規模の初めて行ったライブのコーディネートを行った。









October - December 1978
Minneapolis
Ricky Perterson (キーボード)
「何週間も彼らのところへ行ってジャムセッションをした。バンドに私を入れて欲しかったのに、「これはやってはいけない。お酒は飲んではいけない。時間通りに来なくちゃいけない…」と言われて。その時、頭の中で閃いたんだ。「これはひどいブートキャンプみたいだ」って。彼にはキャリアがなかったので、彼の将来がどうなるのか分かりませんでした。私はプリンスに「ノー」と言いました。」
(startribune.com)

Gayle Chapman (キーボード)
「プリンスの曲をミネアポリスの自宅で大きな音で聴いていたら、静かな声で「彼にはバンドが必要だ」と告げられたんです。それを友人に話したですが、それがプリンスのいとこ(チャールズ)だったんです。「なぜもっと早く教えてくれなかったの?」と尋ねました。その直後にプリンスに会いオーディションを受けてそのまま帰りました。
それからちょうど3ヶ月後、プリンスから電話がかかってきて、リハーサルに来ないかと聞かれたので、行くと答えました。何曲かリハーサルをしました。ファンキーな曲もありました。彼らが私にグルーヴ感を与えてくれて私も彼らにグルーヴ感を与えました。それで仕事が決まったんです。」

November 1978
"1409 2nd St.South"Minneapolis
Del's Tire Mart
デイルズ・タイヤ・マートと呼ばれる倉庫でツアーメンバーのオーディションを行う。アンドレ・アンダーソンは既にバンドメンバーに決まっていた。アンドレはバンドの他のメンバーのオーディションと採用を手伝うことになった。
ドラムのオーディションにはボビーZ、プリンスのいとこのチャールズ・スミス、元94イーストのデール・アレクサンダー、グランド・セントラルのモーリス・デイがいた。
Bobby Z (ドラムス)
「オーディションは過酷だった。デールが3時間ドラムを叩くと僕が5時間、そしてチャールズが1時間。グランドセントラルで叩いていたモーリスに決まるんじゃないかと思っていた。モーリスは素晴らしい左利きのドラマーでとてもファンキーだったから。」

Pepe Willie
「ドラマーはボビーZだった。でも当時はボビーZよりも優れたドラマーは沢山いたんです。彼が悪いドラマーだったと言うわけではなく、彼が白人ドラマーだったからです。プリンスは混合グループを望んでいました。いとこのチャズも素晴らしいドラマーでしたが黒人のドラムを望んでいなかったんです。」
(Prince Unauthorized) 1992年テレビ

Dez Dickerson (ギター)
「プリンスの名前はずっと気になっていて、いろんな楽器を演奏する少年の話を聞いていたんだ。
それでツインシティーズ・リーダー紙で「ワーナー・ブラザースのレコーディング・アーティストがギタリストとキーボード奏者を募集」という広告を見つけた。ワーナーと契約しているのはこの街でプリンスという若者だけだったから。
僕は彼のマネージャーに電話して、オーディションの手配をしてもらった。それでプリンスとみんなは2時間も遅れてきたんだ。それでマネージャーのところに行って、『今、地方のライブに行く途中なんで先に出来ない?』って言ったんだ。
そしたらプリンスとバンドの他のメンバーもようやく参加して、当時はアンドレ・シモーネがベースを担当していて、彼はボビー・Zと演奏を始めた。僕がリズムを少し弾いて、プリンスが顔を上げてうなずいた瞬間に僕のパートを始めた。必要なことを伝えたと思ったらすぐにリズムに戻ったんだ。
15分間のオーディションはそんな感じだった。プリンスは駐車場で話をしようと外へ誘ってくれて、あの年齢にしては驚くほどキャリア志向の質問をしてきました。「いいかい、君は君のやりたいことをやってきたのは分かっているけど、僕のやりたいことを手伝ってくれないか? 成功したら僕は君が自分のやりたいことをできるように何でもするよ」と彼は言ったんだ。
あとで分かったんだけど、彼は僕がいきなり15分間ソロを弾こうとしないところを気に入っていたんだ。彼は何度も電話をかけてきて、家に来て曲をいくつか覚えたり、彼とアンドレと一緒に演奏したりできないかと誘ってきた。採用されたことは一度も教えてくれなかった。というか、辞める日まで。ただ、給料がもらえるようになったら、これでもういいやと思ったんだ」

このオーディションには後にクラウド・ギターを製作するデイブ・ルサンも参加したが最終的にデズ・ディッカーソンが選ばれた。アンドレはバンドに加入と同時にミドルネームをフランス的な「シモン」に改名した。

November 1978
"1409 2nd St.South"Minneapolis
Del's Tire Mart
Matt Fink (キーボード)
「当時は、この辺りはまだ人種隔離が多少残っていました。プリンスが誰なのかさえ知りませんでしたが、77年後半にドラマーのボビーがデモテープを聴かせてくれたんです。その時ワーナー・ブラザースと契約していたプリンスに興味を持ち、ボビーに電話してバンドのオーディションを受けさせてくれないかと頼みました。バンドがミュージシャンを募集していたんです。
オーディションに行くと、プリンスが最初に言ったのは「え〜と『So Blue』って曲を覚えて来た?」でした。ファーストアルバムに収録されていたんですが「いいえ」と答えました。覚えてないんです。なんてこった! すると彼は笑って「気にしないで。あのアルバムにはキーボードが入ってないんだから」と彼は打ち解けるために冗談を言ってくれました。それからジャムセッションを始めました。私はミニモーグを持っていきました。当時はソロ楽器として使っていましたがなかなか上手に弾けました。彼は持っていなかったので、かなり感銘を受けたようです。」


Prince
Andre Cymone (B)
Bobby Z. Rvkin (Ds)
Dez Dickerson (G)
Gayle Chapman (Key)
Matt Fink (Key)

"3809 South Upton Avenue"

Pepe Willie
「ミネアポリスのデールズ・タイヤ・マートでバンドはリハーサルをしていたんですが、ある日強盗にあったんです。プリンスがドアに鍵をかけていなかったのだと思います。彼はそういう事をよくやっていたから。強盗に遭ったとき私は彼のために巨大なスピーカーを借りたんですが、それは大き過ぎて持って行けなかったようです。それで私は彼らに「いいよ、俺の家で練習しろよ。誰も来ないから」って言ったんです。それから彼らは機材を全て南ミネアポリスの私の家に移動させてそこでリハーサルを始めたんです。
驚いたのは彼らは毎日12時間もそこでリハーサルしていたんですが、ある日のリハーサルの後、夜の11時半くらいだったと思います、プリンスの家に行くと車があるので居るのは分かっているんだけど、ドアのベルを押しても出て来なくて、それで家の横に回って地下室の窓をのぞくとドラムを叩くプリンスが見えた。これが12時間も練習した後この男がした事です。
(Prince Podcast)

1979
January 5. 1979
"Capri Theater"Minneapolis
1st Concert
1日目は映画館をコンサート会場に改装するためのチャリティー公演。

"For You"
"Soft & Wet"
"So Blue"
"Just As Long As We're Together"
 (Prince 20才)
Martin Keller (音楽評論家)
「プリンスが登場し、何人かの女の子が叫んだりしていたが、大部分はとても平凡で記憶に残らないショーだった。私が一番印象に残ったのはパフォーマンスにばらつきがあったという事だ。アンコールでステージに上がってきて、とても低い声で話していたのを覚えています。みんなそれに驚いたと思います。コンサートツアーの準備が出来ていない事が十分分かりました。」
(Prince Unauthorized) 1992年テレビ

Jon Bream (音楽評論家)
「ミック・ジャガーのような堂々とした動きと身振りでステージを闊歩した。彼はクールで、自信に満ち、そしてセクシーだった。[…] 全体として、プリンスのパフォーマンスは、彼が並外れた才能を持っていることを明らかに示していた」



アーディスト・マネージメントはカヴァロ・ラファロと契約しスティーヴ・ファーグノリがマネージャーとなった。




January 6. 1979
"Capri Theater"Minneapolis
2nd Concert
2日目はワーナー幹部への特別公演。
今回のライブはワーナーブラザーズがプリンスがツアーに出られれるかどうか確認するためのものだった。








"For You"
"Soft & Wet"
"So Blue"
"Just As Long As We're Together"
Nielsen
「デズはとても原始的なワイヤレスギタートランスミッターを使っていたのですが、故障して大きなノイズが発生しました。それを取り外し、普通のギターケーブルで接続するまで、10分間ショーを中断しなければなりませんでした。ステージ上の静寂は永遠のように感じられ、プリンスは最初は何も言わず、観客に背を向けていました」

Dez Dickerson
「覚えているのは、プリンスがその晩のほとんどを観客に背を向けて過ごし、曲の合間には目を閉じてマイクに向かってブツブツと呟いていたことだけだ。アンドレと私は やり過ぎたことを思い出す… あらゆる機会を利用して観客席に駆け込み、会場の後方まで行きそしてステージに戻った。本当に馬鹿げたことをしていたよ」」

Charles"Chazz"Smith
「その夜、私はプリンスと一緒に車で家に帰ったんだけど、ワーナーの1人はツアーに出るには準備が出来ていないと感じていた。プリンスは凄く落ち込んでいていた。「いや、最悪じゃない。君たち本当にいい演奏だった。もう少し一緒に成長する時間が必要なだけだ」と言ったんだ。」

Dr.Fink
「彼はまだ学び続け、ステージで何をするかを模索している最中でした。まあまあうまくいったけど、ワーナーが「ツアーに出られる準備はできた」と言うほどではなかったと思う。それで彼に次のアルバムを作らせ、その間に僕たちは何ヶ月も必死にリハーサルをしたんだ。」
(startribune.com)
January 7. 1979
"Capri Theater"Minneapolis
3rd Concert
プリンスは大きなショックを受け、チケットの売れ行きが振るわなかったこともあり、1月7日の公演は中止となった。
Cancel








1979
Minneapolis

From Left:
Duane Nelson. Alberta. & Steve (Friends)
Norrine Nolen (Nelson)
Lorna Nelson. John Nelson
Herman Howard (Uncle)



"The Minneapolis Star"(Jon Bream)
「緊張しているよ」とプリンスは恥ずかしそうな笑みを浮かべた。「怖くなるよ、そこに人がいるという事実を遮断するには時間がかかるからね。人前でパフォーマンスするのはすごく難しいと思う。」プリンスは約4か月をかけて地元ミュージシャンのグループのオーディションを行った。彼は「ここには未知の才能がたくさんある」と感じているため、地元でバンドメンバーを探すことに決めた。
January 19. 1979

"Twin Cities Reader"(Martin Keller)
「僕は飛行機に乗るのが嫌いです。家にいてリハーサルをしたり、スタジオで一人で演奏したりするほうが好きです。僕はミネアポリスの静かなところが好きでここでは誰にも邪魔されません。
僕はいつもにここに居ているよ」
かつてカウボーイか消防士になることを夢見ていたこの多才な天才は、ペットのワニ数匹(!)と一人暮らしをしており、あまり表舞台に出ないことを選んでいる







       
April 13.- May
"Alpha Studios"Burbank.Los Angeles
Album"Prince" Sessions"#1
I Wanna Be Your Lover
Why You Wanna Treat Me So Bad?
Sexy Dancer
When We're Dancing Close&Slow
With You
Bambi
Still Waiting
I Feel For You
It's Gonna Be Lonely
Do Me, Baby
(Basic Tracking)
Engineer: Gary Brandt

エンジニアのゲイリー・ブランド所有のホームスタジオ(アルファ・スタジオ)でアルバム「Prince」のレコーディングを開始するがスタジオ予約期間の30日間が終了。延長する事が出来ずサウンドレコーダーズに移動する。

May-13.June. 1979
"Hollywood Sound Recorders"Hollywood
Album"Prince" Sessions"#2
I Wanna Be Your Lover
Why You Wanna Treat Me So Bad?
Sexy Dancer
When We're Dancing Close&Slow
With You
Bambi
Still Waiting
I Feel For You
It's Gonna Be Lonely
Do Me, Baby
(Youtube.com) (4:51)
(Overdubs.Mixing)


サウンドレコーダーズのエンジニアであるボブ・モックラーの協力によりオーバーダブとミックスは6月13日までに完了。

(May 23. 1979)
"Hollywood Sound Recorders"Hollywood
I Could Never Take The Place
Of Your Man #1

(Basic Tracking) (1979 Version)
"Sign O'The Times Super Deluxe"( D4) (3:12)
1979
Prince. Patrice Rushen


プリンスはパトリース・ラッシェンのアルバムのために
"I Wanna Be Your Lover""I Feel For You"
"With You"を書いたがパトリースは拒否、それらの
曲はプリンスのセカンドアルバムに収録された。
"Bambi"もパトリースの為に作られた。
1979
Patrice Rush
「ええ、電話で話したんです。私と一緒に仕事をしていたトミー・ヴィカリというエンジニアが彼とも一緒に仕事をしていたんです。彼は『 彼があなたの音楽を気に入っているんだけど、君たち会ってみたらどうだい?今度ワーナー・ブラザーズと契約することになったんだ。彼はファーストアルバムの制作にも携わる予定だし。君たちって複数の楽器を演奏したり作曲したりする点で共通点が多いよね。お互いを知っておくべきだと思ったんだ』って。それで電話で話したんです。プリンスってそんなに口数が多い人じゃなかったから、会話は短いものでした。彼は電話をかけてきて、どうやって特定の楽器で特定の音を出すのかとか、あれこれと質問攻めにしました。最初は音楽の話を中心に話が進みました。
ある時、アルバム『For You』の制作中に、彼は「Baby」という曲にストリングスを入れたいと言って、私がアレンジを書いてくれるかもしれないと考えていました。実際、彼はアレンジを用意していましたが、それをどう書き留めればいいのか、レコーディングの手順も分かっていませんでした。彼は私にアレンジを依頼し、「もちろん」と答えました。その後、彼は他のちょっとした仕事でも頼んできました。私たちは連絡を取り合っていました。
彼はジャムセッションをしたいと言っていたので、彼がこちらに来た時は、一緒に演奏できる機会を設けようとしましたが、マネージメントから連絡があり、「だめだ、これを終わらせなきゃ。今日はどこにも行けない。やることがたくさんある」と言われました。それで実現しませんでした。」
(Wax Poetics)
       
10-21. July 1979
"Mountain Ears Sound Studio"Colorado
Album"The Rebels" Sessions"
Too Long (Dez Dickerson)
"Work It 2.0 Updated Vo.l 1"( D3) (4:19)
Disco Away (Dez Dickerson)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (4:40)
Thrill You Of Kill You (Dez Dickerson)
"Work It 2.0 Updated Vo.l 1"( D3) (6:14)
You #1 (Prince)
(Vocals.Gayle Chapman)
"Work It 2.0 Updated Vo.l 1"( D3) (2:58)
If I Love You Tonight #1 (Prince)
(Vocals.Gayle Chapman)
"Work It 2.0 Updated Vo.l 1"( D3) (4:46)
Hard To Get (Prince)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3)
(3:23)
The Loser (Turn Me On) (Prince)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (2:06)
Instrumental #1 (Dez Dickerson)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (1:12)
Instrumental #2
(Andre Cymone)
"Work It 2.0 UPdated Vol.1"( D3) (1:08)

Prince (Guitar.Synthesizer.Key)
Andre Cymone (B) (Vo)
Bobby Z. Rvkin (Ds)
Dez Dickerson (G) (Vo)
Gayle Chapman (Key) (Vo)
Matt Fink (Key)

プリンスのセカンドアルバムレコーディング中に出会ったレコーディングエンジニアのボブ・モックラーと計画され、アルバム完成直後の7月10日から12日間のレコーディングで9曲(?)が録音された。アルバムはロック色が強くギターを全面に出しておりプリンスは4曲作曲した。
ディッカーソンによると、このセッションはレベルズのアルバムになるはずだったが、プリンスがそのアイデアを却下したという。なぜこのプロジェクトを断念したのかは不明だが、全体として満足のいくものではなかったと感じたのか、単に飽きて次のことに移ったのかもしれない。


Loving You (Dez Dickerson)
"Work It 2.0 Updated Vo.l 1"( D3) (3:46)
Let's Rock (Let's Workの最初の録音)
プリンスがクラブで観たThe Rockというダンスにちなんで名付けられた。



バーナデット・アンダーソンの自宅の壁に飾っていたアラン・ボーリュウーのポスターを見たプリンスは撮影を依頼をした。
Allan Beaulieu
「YWCAのファッションショー「Save The Blackness」の撮影を依頼されたんです。黒い背景に、黒い服を着た黒人の人たちを撮影したんです。映像を白黒にすると、実際に人物が明るく見えたんです。変だと思うかもしれませんが、彼はそういうのが気に入ったみたいでYWCAショーのポスターに私の名前が載っていたので、彼から電話がかかってきたんです。
彼が誰なのかはもう知っていました。彼はすでに有名でした。でも彼は「僕はプリンスだ。ワーナー・ブラザーズと契約している」と言い続けました。私は「君が誰だか知っている。説明する必要はないよ」と言いました。
最初に彼の写真を撮ったんだけど、彼はそれを気に入ってくれて、ポスターの値段を聞いてきました。それでポスターを作ったら「これはヤバい!」って言うので僕は「ああ、そうだね」って言ったんです。それはつまり彼が気に入ってくれたってことですね。」
(thefader.com)











Summer 1979
"Photo Sessions

ボーリューによる初めてのフォトセッション。プリンスの後ろのカーテンに穴をあけ、ストロボライトで照らして星を作った。これはアルバム「プリンス」のプロモーションポスターに使用された。
(Prince 21才)
Allan Beaulieu
「これは彼と星々との対峙なんです。星を写り込ませるにはまず彼の写真を撮って、そこにじっとしていてもらって、それから星が背景に浮かび上がるように、黒い背景のところに回ってストロボライトを20回も光らせなければならなかったんです。だから彼は本当に辛抱強かったですよ」





Summer (?) 1979
"Photo Sessions

(Photo- Chris Callis)
プリンスは撮影中に話す事は無かった。






Summer. 1979
"Right Out"

(Cynthia Horner)
「本当にこの集合場所までヒッチハイクしたの?」私はプリンスが友人の車に乗ることもせず、どうやって目的地までたどり着いたのか知りたくて尋ねた。「そうだよ。45分しかかからなかった。あっという間だった。それにしてもヒッチハイクの何が悪いの?君は裕福な家庭の出身なんだろうね。僕はそうではなかった。
12歳のときに家出したんだ。父がいなかったので父の家に行ったんだ。」 彼は誇らしげに話す。



1979

"The Lewis Connection"
発売

Side A
1.Get Up
2.Higher
3.Feel Good To Ya

Side B
1.Got To Be Something Here*
2.Dynamic Duo
3.Mr.G
Prince - Guitar & Background Vocals*
ツインシティで限られた枚数のみ販売された(200枚?)

       
August 1979
"Leeds Rehearsal Facility"Hollywood
I Wanna Be Your Lover
(Solo Version) Video Shoot


【The Hits Video Collection】(DVD)



Marylou Badeaux & Prince
August 24. 1979
"I Wanna Be Your Love"(7inch) (US )

Side A
1.I Wanna Be Your Lover (Edit) (2:57)
Side B
1.My Love Is Forever (4:08)
「I Wanna Be Your Lover」はアルバムの2か月前にリリースされた。



"I Wanna Be Your Love"(12inch) (UK )

Side A
1.I Wanna Be Your Lover (5:47)
Side B
1.Just As Long As We're Together (6:24)
1979
"Music Farm Studios"New York
"Fast Freddie The Roller Disco King"(12 Inch)
Little Anthony & The Imperials

A. Fast Freddie The Roller Disco King (6:12) *
= 1979/02/17 :One Man Jam)
B. I Just Wanna Be Your Lovin' Man (4:35)
Prince- Guitar & Synthesizer. Keyboards*
ペペ・ウイリーによるとプリンスは録音に参加している。



Summer (?) 1979
"Radio Station
September 1979- 1981
680 North Arm Drive. Orono
North Arm Drive Home Studio

1979年プリンスのロサンゼルスのマネージャーの下で働いていたペリー・ジョーンズは、にオロノのノース・アーム・ドライブにあまり知られていない賃貸物件を見つけた。そこは映画「パープル・レイン」で重要な役割を果たすことになるミネトンカ湖のほとりにあった。
この家には「紫の家」に引っ越すまでの一年間住み「Dirty Mind」他を録音した。当時の家は火事のため1982年に取り壊された。



       
October (?) 1979
"Leeds Rehearsal Facility"Hollywood
I Wanna Be Your Lover
(Band Version) Video Shoot





October 19. 1979
Sunset Boulevard. Los Angeles
October (?) 1979
"Leeds Rehearsal Facility"Hollywood
Why You Wanna Treat Me So Bad?
Video Shoot
Matt Fink
「プリンスはステージ上のイメージを考えるのはバンドメンバー各自に任せていました。彼は私をおしゃれにしようとしてくれたけど、私をどうブランド化するかで悩んでいた。最初の試みはプリンス所有の本物のカーキ色の落下傘兵のジャンプスーツだった。彼には合わなかったので、ある日リハーサルにそれを持って現れて、「ねえ、フィンク、これを着てみて。この雰囲気がどうか見てごらん」と言った。次にプリンスは「これは前に着たことがあるだ」と言って、金と黒のサテンのタキシードと燕尾服を私に着せた。私はビデオの「Why You Wanna Treat Me So Bad?」でそれを着ている。」
(Mpls.St.Paul Magazine) (2024)




October 19. 1979
"Prince"発売

(Front Cover Photo- Jurgen Reisch)
1.I Wanna Be Your Lover
2.Why You Wanna Treat Me So Bad?
3.Sexy Dancer
4.When We're Dancing Close And Slow
5.With You
6.Bambi
7.Still Waiting
8.I Feel For You
9.It's Gonna Be Lonely

(Photo- Jurgen Reisch)

(Photo- Chris Callis)
アルバム「プリンス」の裏ジャケットはクリス・カリスによって撮影された。ペガサスの羽はハトの羽を合成したもの。

1979 (?)
"5215 France Ave Street"Minnesota
Kiss Me Quick (Basic Tracking)
"Blast From The Past 3.0"( D1) (2:27)




       
1979 "Prince"Tour
November

26. Roxy Theater , Los Angeles
28. Rainbow Music Hall. Denver
29. Western Place , Dallas
December
1.The Palace , Houston
2. Ole Man River's , New Orleans
3. Capri Ballroom.Atlanta
Canceled
4. Bijou. Philadelphia. Pennsylvania
Canceled
5..Bijou. Philadelphia. Pennsylvania




Andre & Prince

"Black Stars"(1980年3月発売)

INTERVIEW (Lisa Collins)


Q. アルバムの写真のきっかけは何ですか?
「それは単なるアイデアでした。わからない。それは何かを象徴するものではなく、ただ美しい写真だと思います。」







November 26. 1979
"Roxy Theater "Los Angeles





Andre Cymone

「ステージで下着みたいなものを着始めたのはロサンゼルスのロキシーだったんだけど、あれは下着じゃなくて俺は透明パンツを履いていたんだ。
テレビ番組の『アメリカン・バンドスタンド』を見たことがあるか分からないけど、その時、透明パンツを履いて下には黒い下着を履いていたんだ。だから遠くから見るとみんな俺が黒い下着だけを履いていると思ったんだよ。
女の子たちが悲鳴を上げてた。その時プリンスのマネージメント陣から「おい、これはプリンスのやり方だ」って言われたんだけど。俺は自分のやりたいことをやる。もし自分のやりたいことができないなら、このバンドにはいたくないって感じだった。
また彼らがやって来て「じゃあ、ちょっと違う服を着てみたらどうだい?」って言ってきたんで「だめだ」って言ったら、「わかった。君の好きな服を着ればいいよ」って言われたんだ。それで2回目のギグ。
その夜は1回目と2回目のギグがあったんで。 2回目のショーでは、プリンスは下着みたいなものを履いていた。ホントにただの下着なんだ。透明パンツなんてなかった(笑)。
それがすべての始まりだった。それから間もなく俺はパンツを履かなくなった。だって1人がそういう雰囲気だったらクールだったけど、2人になると、チップとデールみたいになるだろ?。それで、彼にはパンツを履かせてあげて、それが彼の定番になったんだ。」
(KPFA Radio 1998/10/31)


Bobby Z.
「僕たちはスパンデックス・キッズに変貌していました。できる限り奇抜で突飛な服装をしようとしていました。ロサンゼルスのロキシーで2公演をやっていました。公演の合間にマネージャーのボブ・カヴァロがやって来て批評リストを確認しました。プリンスに関しては、「下着なしでスパンデックス・パンツを履いているなんて、卑猥だ」というものでした。ボブが去ると、プリンスはあの表情になりました。」
(startribune.com)


Bob Cavallo
(マネージャー)
「私は彼に「下着姿でステージに出るべきじゃないと思うよ」と言いました。するとプリンスは「わかった次のショーまで待っててくれ。下着を脱ぐから」と言い、バンドは大爆笑しました。」
(startribune.com)

Matt Fink
「もっとも初期の頃、最初のツアーの一つの劇場で演奏した時の話だが、女性の観客が彼に熱狂したのも忘れられない。まるでビートルズのようだった。正直に言うと、セカンドアルバムのリリースを記念したツアーだった。当時は警備員がいなかったから、ショーを終えてバックステージのドアから出ようとした途端、女性たちが群がって彼を待ち伏せしていた。冗談ではなく、私たちは女性たちの猛攻をくぐり抜け、彼女たちは文字通り彼のシャツをピラニアのように引き裂いた。信じられない光景だった。決して忘れないだろう。それで、それ以降彼はボディーガードを雇わなければならなくなった。」
(The Current)






November 28.1979
"Big Apple Tapes & Records"Denver
Autograph Signing

"Rainbow Music Hall" Denver





November 29. 1979
"Western Place Club"Burleson.Texas






December 1. 1979
"The Palace"Huston.Texas







December 2. 1979
"Ole Man River's"Avondale.Louisiana




       
  December 16. 1979 (january 26. 1980)
"ABC TV Center Studio"Los Angeles
TV"American Bandstand"

"I Wanna Be Your Lover"
"Why You Wanna Treat Me So Bad
“You learned to do this in Minneapolis?”
“Where?”
“Yeah, I mean this is not the kind of music that
comes from Minneapolis, Minnesota!”
“No”
Dez Dickerson
「ディック・クラークがグリーンルームにやって来て、僕たちに温かい対応をしてくれました。彼は皆をリラックスさせてくれた。でも彼が去った後、プリンスの顔に「何かが起こるぞ」という表情が浮かんだのを見ました。彼は「これからやることが決まっている。ディック・クラークが話しかけてきたら、何も言うな」と言いました。私はがっかりしました。しかし結局は天才的なアイデアだと評価されました。ディック・クラークは今でもそのことを話しています。」
(startribune.com)

Pepe Willie
「アメリカン・バンドスタンドをみんなで見ていたんだけど、プリンスはほとんど話せなくて、ミネアポリスに戻って来た時に僕は「ほとんど話せなかったのはなぜだ?何が起こったか分かってるだろ?」って彼を罵倒したんだ、彼はディック・クラークが自分に話しかけ始めた瞬間に何百万人もの人が見ていると思ったら、その場でステージ恐怖症になってしまったんだ。そして「二度とあんな事は起こさない」と言ったんだ。それから彼はインタビューを全てコントロールし始め、特定のことしか話せないようになって、それで終わりだった。」
(Prince Podcast)

Patrice Rushen
「私たちは接点を持つ重要な瞬間がいくつかありました。私たちは二人とも『アメリカン・バンドスタンド』の収録を同じ日に行いました。番組は同じ日に放送されたわけではありません。あの有名な『アメリカン・バンドスタンド』のエピソードで、ディック・クラークが彼に楽器を何本演奏するか尋ねたのに、プリンスは答えず、ただ両手を上げて5本か10本か、何本かと尋ねました。彼はいつもミステリアスで物議を醸す瞬間を作り出していました。そのほとんどは仕組まれたものでしたが、私と彼の間には、本当に話せるような親密さがありました。」
(Wax Poetics)

Andre Cymone
「ステージ衣装については、昔からファッションに興味がありました。ヨーロッパのファッションを学んでいた姉が、いつも家に雑誌を置いていた影響が大きかったですね。姉は初期の頃の私や、ソロ活動を始める前のプリンスのステージ衣装のほとんどを作ってくれました。プリンスが当時着ていたあの有名なトレンチコートやアニマルプリントのベストとボトムスも姉が作ってくれました。
透明パンツに関しては、ジョージタウンDCのお店で見つけて、自分のサイズがあれば全部買いました。それ以外では、当時雑誌に目を通していて、その時に自分たちが表現しようとしていたものに合いそうなものを見つけたら、それを着たり、切り抜いてプリンスか姉に見せて作ってもらったりしていました。それとソーホーのTrash in Vaudevilleというお気に入りのお店があって、当時着ていた服の多くはそこから買っていました。」
(funk.fr) (2017)











Matt Fink
「プリンスのテレビデビュー「アメリカン・バンドスタンド」では白黒の縞模様の監獄服を着ました。白黒のキーボードに白黒の縞模様です。しかしその後のリック・ジェームスとツアーに出たとき、プリンスが「残念だけどリックはショーで監獄服を着てるし、しかも彼がヘッドライナーだから、、見た目を変えてほしい」と言われました。」
(Mpls.St.Paul Magazine) (2024)
Matt Fink
「プリンスはアルコール、マリファナ、コカイン、錠剤など、あらゆる薬物の使用に断固反対していました。私が加入したとき、彼ははっきりとこう言いました。「このバンドではいかなる薬物使用も容認しない」.。私は当時タバコを吸っていましたが、彼の前では絶対に吸いませんでした。当時はマリファナも吸っていましたが、ショーの前やリハーサルの前にハイになることはありませんでした。お酒もほとんど飲みませんでした。
そんな時、1979年に友人にコカインを勧められすっかり気に入ってしまいました。もちろん多くの人がそうだったでした。そして、それがいつの間にかプリンスとのツアー中に蔓延するようになったんです。ロードクルーは眠気覚ましにコカインを使っていたので、ショーの後に少し試してみないかと誘われました。しかし私は1985年9月にきっぱりとやめました。1986年1月には、マリファナもタバコも、すべてをやめました。完全に断ち切り、それから33年間、一切何も手をつけていません。今は合法になったので、たまにエディブル(食用大麻)を摂取する程度です。」
(Mpls.St.Paul Magazine) (2024)





       
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